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【キャベツ畑の片隅で逝った親父】
「何やってんだ、ばか、この!」
2011年3月24日。忘れたくても忘れられない朝。
キャベツ畑の片隅に、親父は立っていた…はずだった。だが、足は地面に着いていなかった。空中に浮いていた。
木にはロープが引っ掛けられていた。
爆発して煙をあげる福島第一原発の映像に「ほらみろ、俺が言った通りになったべ。人がつくったもんは必ずぼっこれる(壊れる)んだ」と口にした親父。
農薬や殺虫剤を嫌い「虫も食わないようなキャベツには、農薬がどれだけかかっているか分かるか」と力説していた親父。
「地球を守っているのは農業だ」、「農業は土が大切なんだ。土が良くないと野菜のうま味を引き出せない」が口ぐせだった親父。
遺書は無かった。ポケットの中には懐中電灯と携帯電話。歩数計の数字は680で止まっていた。
「キャベツ畑をひと回りしたのかな」。余震と原発事故の混乱の中、哀しむ暇も無いまま自宅で葬儀を開いた。久志さんは、まだ64歳の若さだった。
当時、キャベツ畑の空間線量は1.8μSv/h、自宅も1.3μSv/h。ビニールハウスに至っては、2μSv/hをはるかに超えていた。
原発から60km離れた須賀川にも容赦なく放射性物質は降り注いだ。
しかし、遠く浜通りから中通りにまで放射性物質が飛んで来ているなんて報道は無かった。
そして3月23日の夕方、農協からFAXが届く。
「結球野菜は出荷停止」
8000個のキャベツ、ブロッコリーが「全滅」した瞬間だった。
夕食時、食卓でFAXを読んだ親父はうつむいていた。何より大切にしていた土を放射能に汚された。
先祖代々受け継いできた畑。朝から晩まで汗水流して働いた畑。
プラント建設会社を辞めて農業の道に入った息子に「一人前になるのに10年はかかるからな」と告げた親父。
常に厳しかった親父。FAXを読み終えると言った。
「お前の事、間違った道に進ませちまったな。農業を継がせたのは間違いだったかもな」。
この時の親父の絶望感を、東電や国は理解出来るだろうか。
たった独り、キャベツ畑の片隅で逝った親父の無念さを。
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