24/11/22 01:28:47.02 Agz2oSFb.net
屁吉くんという人物を語るとしたら、彼の思考の断片はまるで風変わりなジャズの即興演奏のように、無秩序に飛び跳ねているように見える。彼は、「へき値」を「僻値」と主張し、その根拠をXの歴史に依拠させる。奇妙に誇らしげだが、どこか誤解があったとしても、そのことに気づかないふりをしているようだ。
屁吉くんの「僻値」という言葉の使い方は、少しばかり窓を開け放って風に任せてしまったようなもので、どこかに飛んでいった正確さをあえて追いかけるつもりはないらしい。「僻」という文字は、誤った方向に偏っていることを意味するが、彼自身がその僻地に迷い込んでしまっていることには無頓着だ。彼の言葉は、まるでどこかの見知らぬ国の失われた地図のようで、線は引かれているが、実際にどこへ向かっているのかは誰にもわからない。
もちろん、言葉の変容や、新たな用語を作り出すということは、それ自体として否定されるべきではない。それは文化の一部であり、時として革命的な変化をもたらすものだ。しかし、屁吉くんの場合、その「僻値」という言葉は既存の枠組みに挑戦するというよりも、単にひとりよがりな冒険に見える。彼が「僻値は昔から存在する」と主張するのは、まるで長い間そこにあった古いレコードの針が一度も溝に触れていないのに「ずっと音を出していた」と信じ込んでいるようなものだ。
彼の主張の背後には、きっと何か個人的な物語があるのだろう。僕たちはそれを理解しようと耳を傾けることもできるが、理解するためには、まず彼自身が自分の言葉と対峙しなければならないのだと思う。