和久井一朗とその時代 5【最後の極道】at 4649
和久井一朗とその時代 5【最後の極道】 - 暇つぶし2ch2:取材班
24/04/19 06:55:15.06 0.net
十七代目緋川一家で若頭の要職にある葛西達哉会長が率いる葛西会に嬉しい出来事があった。
長い懲役を務めていた坂口正暉幹部がシャバに帰ってきたのである。
坂口幹部は、葛西会が某組と抗争している際に体をかけた功労者なのだ。
葛西会長に対して絶対的な忠誠心を持っており、その葛西会長のメンツを守るために体をかけた。
坂口は若いころ、和久井一朗親分が率いていた和久井会で修行をしていた。
葛西会長が坂口の将来性を見込んで、和久井会に預かってもらったのだ。
坂口は当初、和久井会の武田流心舎弟頭に付いていたが、よく働くことが認められ、一年が過ぎたころには和久井親分に付くようになった。
だが一度、大きなミスをしたことがある。
和久井親分に付いてA組の継承式に行った際、坂口は和久井親分が着る紋付袴を持参するのを忘れてしまったのだ。
坂口は義理場に到着してからそれに気づき、和久井親分に土下座をして謝った。
すると和久井親分は「そんなことはやめろ」とだけ言い、着ていたスーツのまま義理場に入ろうとした。
その場には、錚々たる親分衆が訪れており、スーツを着ていたのは和久井親分のみで、あとは皆が紋付袴だった。
よって入り口でA組の最高幹部は、和久井会の一行に対して「他の親分さんたちの目もありますから、紋付袴で参加していただかないと困ります」と言った。
それに対して、和久井親分の秘書役を務めていた和久井会の永井慶史若頭補佐は「うちの親分を門前払いとは、お前らはどの立場で言うとるんや?」と言った。
和久井親分は「永井、もういい」と止め、つづけて「帰るぞ」と言った。
坂口は自分がミスをしたせいで大変なことになってしまったと焦った。
よって、和久井親分に対して無礼なことを言ったA組の最高幹部のタマを取ることで、和久井親分と組のために体をかけようと考えたのである。
だが和久井親分は、そんな考えもお見通しで「坂口、余計なことは考えなくてもいいし、何も気にするな」と言ったという。
その器の大きさに触れ、坂口はますます修行に精進するようになったのである。

3:取材班 ◆C8WiiS0OIk
24/04/23 04:18:35.90 0.net
ちなみに、A組の継承式があった翌日、A組の組長と若頭が和久井会の本部を訪れた。
だが、和久井親分に会わせることなく、和久井会の永井若頭補佐らが応対し、前日の無礼に対する説明を求めたのである。
すると、A組の組長は、組長と若頭、無礼を働いた当事者の各々が詰めた指を差し出した。
加えて、組長は「無礼を働いた当事者は破門にしました」と伝えた。
永井若頭補佐は、その指を和久井親分が居る会長室に持っていった。
指を見た和久井親分は「せっかく祝い事があったのにな」と言い、続けて「これを渡しておいてくれ」と言って見舞金を渡した。
すべて水に流すという意味である。
器が大きいのと同時に、もし話がこじれたら和久井会の若い衆がA組を叩きのめして何人かが懲役に行くことになるのが分かっていたからこその判断だろう。
その意を汲んだ永井若頭補佐は、A組の組長らに対し「指はこちらで供養させていただきます。それとこれは、うちの親分からです」と言い、金を渡した。
A組の組長らは正座して頭を深々と下げ「大変恐れ入ります」と言って金を受け取ったのだ。

その後、A組の一行は和久井会本部を出て帰っていったのを見届けた永井若頭補佐は、どこかに電話をかけた。
A組の組長のタマを取るため、和久井会の若い衆たちがA組の事務所付近に潜伏していたのだが、襲撃を止めるためである。
誰が指示した訳でもなく、若い衆は自発的に動いていたが、永井若頭補佐は把握していたのだ。
だが、和久井親分が水に流した以上は、襲撃は御法度である。
よって若い衆たちはすぐに本部に戻ってきた。
永井若頭補佐は「腹減ってたら、これで何か食えよ」とだけ言い、金を渡した。

そんな和久井会で修行を積んだ坂口は、極道としての生き方をしっかり学んだ。
修行に出されてから丸三年になったとき、和久井親分から「そろそろ葛西のところに戻って、組を支えてやったらいいんじゃないか」と言われた。
坂口は深々と頭を下げ「まだまだ未熟者ですが、本当にお世話になりました」と礼を述べたのである。

葛西会に戻った坂口は、すぐに頭角をあらわして幹部の座につくまでになった。
そして抗争によって長期服役することになったのである。
葛西会長からその旨を聞いた和久井親分は「お前のことだから心配はないが、中に入っている者には良くしてやれよ」と言った。

4:取材班
24/04/24 00:06:55.14 0.net
そんな坂口が、いよいよ出所した。
坂口は葛西会本部で葛西会長に挨拶したのち、緋川一家総本部に出向いて和久井親分に挨拶した。
和久井親分は「ご苦労さんだったな。元気そうでよかった」と言った。
坂口は「緋川一家の代紋頭になられて、そんな凄い親分の下で短い期間でも修行できたことは誇りですし、葛西の会長も一家の若頭にまでなられて嬉しいです」と言った。
和久井親分は「何も凄いことなんかない。自分があるのは、みんなのおかげだ」と答えた。
数分ほど会話した後、坂口は「これから、永井さんの墓参りに行きます」と言った。
和久井会に在籍していた永井若頭補佐は、抗争で命を落としたのだ。
服役中にそれを知った坂口は、自分が何もできない悔しさに打ちひしがれていた。
当然、和久井会は激しい返しをし、相手の組は壊滅した。
だが坂口は、もし相手の組関係者が刑務所に入ってきたら、世話になった永井若頭補佐のために返しをしたいと考えていた。
そんなとき、葛西会長が面会に訪れ「悔しい気持ちは分かるが、今は自分の務めを果たして、無事に戻ることだけ考えてくれ」という言葉を伝えた。
坂口は「会長、自分のためなんかにわざわざ来ていただき、すみませんでした。しっかり務めます」と返事をした。
葛西会長と坂口は緋川一家総本部を出て、永井若頭補佐の墓に向かった。
坂口はしばらくの間、墓前に手を合わせて目を閉じていた。
葛西会長は「永井は良いヤクザだったが、お前も同じようにもっと良いヤクザになれる」と言った。
坂口は「とんでもないです。まだまだ追いつけません」と答えた。
すると葛西会長は「永井と同じ役職をお前に任せる」と言った。
つまり坂口は、葛西会の若頭補佐に任命されたのである。
和久井会の永井若頭補佐がもし存命だったら、きっと緋川一家の直参にもなっていたであろう。
しかしそれは叶わない話となった。
葛西会長は「なぁ、坂口。いずれは和久井親分の直参になれるよう頑張ってくれ」と言った。
坂口は「ありがとうございます。そのためにも葛西会でしっかり頑張ります」と答えたのだった。

5:名無番長
24/04/24 05:18:09.58 0.net
今日も寝れないのが丸分かり😂

ここまで圧倒的な差がある雑魚だと本当QOL向上できてるょ😊

6:取材班 ◆C8WiiS0OIk
24/05/02 05:50:51.39 0.net
十七代目緋川一家の傘下組織は、大半が博徒系だが、的屋系も5団体ある。
その中で最も大きな勢力を誇るのが、若頭補佐を務める齋藤嘉男会長が率いている六代目田崎橋連合会だ。
田崎橋連合会は、幕末に香具師として名を馳せた田崎橋之助を祖とする名門中の名門である。
一時は田崎橋の名跡は途絶えていたが、多数の関係者の尽力により復活した。
当代の齋藤会長は名媒酌人としても知られており、数々の盃事を仕切ってきたのは有名だろう。
その口上は見事の一言で、緋川一家の事始式などの司会を担うことも多い。
また田崎橋連合会は戦闘力も高く、数多の抗争を繰り返してきた。
一方で齋藤会長は他組織からの人望もあり、器も大きいことから、田崎橋連合会の庭場は常に屋台でにぎわっている。

ある組員は「うちの齋藤会長は他の組織に良い場所をどんどん与えるんですよ。だからうちの庭場なのに、いつもうちが一番商売しにくい場所なんです」と言って笑った。
だがそのおかげで、田崎橋の一門は商売を創意工夫するようになり、的屋として格段に成長したという。
「自分は面倒くさがりなんで、放任主義です。商売のことも全く教えません」と齋藤会長は語ったことがある。
このことから「捨て育ちの田崎橋」という言葉も有名になった。

そんな田崎橋連合会が仕切る大きな祭りのとき、緋川一家総長の和久井一朗親分が訪れるという話があった。
齋藤会長は事前に屋台を回って、和久井親分に対して大層な挨拶は控えるよう、屋台の主たちに伝えた。
一般客への配慮と、商売の邪魔はしたくないという和久井親分の気持ちを察してである。
それから数分後、鶴崎健剛秘書室長と港川正芳秘書室長補佐を伴って、和久井親分が訪れた。
和久井親分は齋藤会長に出迎えられ、祭りの雰囲気と屋台を見て回った。


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