07/11/23 19:49:37 BglOWJGz
>>492
学問(サイエンス)というのは、世界性の別名であって、世界基準での思考の体系
のことである。冷酷な事実からなる組み立てである。その点、日本の理科系は世界
基準で数学ができるから、少なくともテクノロジー(技術)やアプライド・サイエンス
(生産技術)の場面では、世界レベルに到達しているからたいしたものである。
数学は、もう一つの世界言語である。彼ら日本の秀才達のことを、英語では
エンジニアとかテクニシャンというのである。
彼らはけっしてサイエンティストとは呼ばれない。エンジニアやテクニシャンは理科系
の学者集団の中でも、下層の方に位置づけられている技術職人たちのことである。
たとえば、ハーヴァード大学では、「サイエンティスト」と呼ばれる一流学者達の層
以外に、この上に、たった十二人だけ「フィロソファー(哲学者)」と呼ばれる人々がいる。
私はこの事実を以前ハーヴァード大学公衆衛生学準教授であった柳沢幸雄氏
(現在、東京大学工学部教授)から、直接聞いた。
日本には「哲学者(フィロソファー)」をどと名乗る文学部哲学科の馬鹿教授が
何百人かいるだろうが、日本には、フィロソファーなど誰一人として、存在しないの
である。馬鹿も休み休み言え。そもそもフィロソフィー(知への愛)は、神学の下女
(はしため)の位置にある。そして、大きくは、サイエンス(学問)=「自然界の事実
を冷酷に、法則性として記述すること」の体系と一千年にわたって戦い続けてきた
のである。数学も、実はサイエンスの仲間ではなく、フィロソフィーと出自がよく
似ていて、神学の下女の方である。
それにたいしてサイエンティストは、ガリレオ・ガリレイやアイザック・ニュートンや、
チャールズ・ダーウィンの例に見られるごとく「冷酷な諸事実からなる体系」として
しか世界を理解しない。だから今でも神の体系(神学)と争い続けているのである。
未だに、神学と近代学問(サイエンス)の戦いには、決着がついていない。
この神学なるものの大きさは東アジア種族である日本人には到底分からない。
別に自ら卑下して言っているのではい。学問の巨大な対立概念は、実は神学
なのだ、とはっきり言っているだけだ。サイエンティストからすれば「確実に事実
証明されないことは分からない。世界が予め神によって造られたという考えを
自分は認めない。自分は、はっきりと分かったことだけを、分かったこととして
認めるだけだ」という態度をとる。
もとよりサイエンスは、物理学、化学、生物学、などの自然学である。
これ以外に、ソシアル・サイエンス(社会科学?)として経済学、社会学、政治学、
サイコロジー(心理学?)がある。しかし、これらが果たして、サイエンスとして
自立したか否か、今でも分からないのである。経済学だけが、かろうじて60%
ほど、冷酷なサイエンスとして成功している。あとは、全て大失敗らしい。
だから今でも政治学者と政治評論家の区別や優劣がつかないのだ。
これ以外に下等学問としての人文がある。この人文というのはヒューマニ
ティーズの日本語訳である。ヒューマニティーズとは、「人間、および記録された
文学に関わる事。という意味である。だから人文は、簡単に言えば現在で言う
文学(部)の事である。他には歴史学があり、その内容である古文書解説や
石碑の文の解説などを行うことだ。
これらは、学問としては下等学問である。これと、サイエンス(学問)の区別を
つけなければならない。これが、日本人にはできていない。すべてごちゃまぜ
なのが日本の大学制度である。これは国家的学問犯罪と呼んでもいい。
大欠陥学問観と呼んでもよい。
このヒューマニティーズとサイエンスの区別がついてる日本知識人自体が、
ほとんどいない。すべてごちゃまぜである。さらには「文学部哲学科」や
「文学部心理学科」などという恐るべき学問分類を行って恥だと思っていない。
あるいは「人文科学」などという奇怪な言葉を、すべての教育機関が使っている。
人文が科学(サイエンス)のわけがないではないか。
副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(上)」P321~325