07/12/13 14:00:15 bzvdKENk0
>>503
> >>491
> >やる気さえあればなんとかなるはず
>
> 「やる気があっても実際にやらなければ」なんともならんよ。
> 現実にも貧しい人の中で殆どの人は「やる気はある」と言うだろうよ。
> だが、そのうちどれだけの人が「実際にやってる」だろうか?
> 当然、貧乏の状態から普通の状態になるには、普通の能力ならば
> 人並外れた勤勉さが必要とされるだろうよ(特殊な能力を持ってる香具師は別)。
> 最終的には結果を出すことだが、どれだけの貧乏人がそれほどの勤勉さを示しているかね?
分かりやすいたとえを出せば、「やる気が同じ、産まれた家が違う」 という2人の人間は
同等になるのかって話。あるいは、けがや病気や先天的障害など、自分の責任では
ない領域で差がつくのが世の中でしょ。実際にやってもダメとか、そもそも実際にやると
いう時点で恵まれた境遇のヤツとは必要な努力が違う。
近代国家における平等の観念は、なにも努力してるヤツとしてないヤツを同等に扱うと
いうことを意味しているわけではない。やむを得ず弱者となっている人々も全て、自己
責任だと思考停止して国家が責任を放り出すというのは、そもそも近代国家の果たす
べき責任をうっちゃってることになるでしょ。
それが人類における「国家」のあり方としておかしいんじゃないのか?っていう。
オレなんかは恵まれた家庭に育ち、一流大学を出て、サボりながらできる仕事をして、
人より多いとは言えないながら給料をもらってくらしてる。そういう人間からすれば、自己
責任という言葉を振りかざして弱者を切り捨ててもらった方が自分にとっては得になる。
だが、オレが国家に求めてるのはそんなものじゃない。
国民一人一人が、困ってる人間を手助けし、自分が困ったら手助けしてもらう。国家を
何のために作ったかと言えば、一つにはそれだろ?そして我々は国家に滅私奉公する
立場にはなく、むしろ我々こそが(少なくとも建前上は)国家の「主」なんだから。