【韓国】「韓牛」1頭育てるごとに損失10万円~牛の値段は下がり、飼料の値段は上がる[08/12]at NEWS4PLUS
【韓国】「韓牛」1頭育てるごとに損失10万円~牛の値段は下がり、飼料の値段は上がる[08/12] - 暇つぶし2ch212:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
08/08/12 19:25:58 IvpMKYIQ
                       
■『弘仁の新羅賊』
 『日本紀略』弘仁四年(813年)3月18日の条、およびその前後に記録された長崎県五島・小値賀島への
入寇をめぐる諸事項。
 まず811年12月6-7日未明、対馬佐須浦に一艘が上陸、海上には20艘余りの新羅船が様子を窺いにきた。
そして813年、基肆軍団の校尉が2月29日、次のように伝えてきた。
「新羅の一百十人、五艘の船に駕り小近島に着き、土民と相戦う。即ち九人を打ち殺し、一百人を捕獲す」
 事後の対策として、新羅語の通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして
毎年のように大量にやってくる新羅人集団を尋問できるようにし、796年以来絶えていた弩師を
復活するなどした。


■新羅=憲徳王の治世
 憲徳王(けんとくおう、生年不詳 - 826年)は新羅の第41代の王(在位 : 809年 - 826年)であり、
姓は金、諱は彦昇。
 809年7月に、甥の哀荘王を殺害して、自ら王位に就いた。
 その治世下、新羅国内では、度々災害が起こって民が餓える事態が発生していたが、租を免じたり穀倉を開いて
施したりしているものの、有効な手立てとはならず、盗賊が跋扈するに至り軍隊を派遣してこれを鎮圧するなど、
安定した政治は行われてなかった。816年には、飢饉に見舞われた新羅人が食を求めて唐の浙江省東部へ流入した。
そのような流民は170人にものぼった。
 また、この前後で日本に逃れた新羅人も200人以上になり、日本人を狙った海賊活動を展開していた。

■『寛平の新羅賊』
『日本紀略』『扶桑略記』寛平五年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇と
その征伐の記録。
 893年5月11日、大宰府は新羅の賊を発見。
「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。また、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」
 翌894年4月、新羅賊が対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、参議・藤原国経を権帥として
下すなどを定めたが、新羅賊は逃げていった。
 この間、遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を調査するためであったともいう。
 9月5日の朝、対馬守・文屋善友(文)は、郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃った。
雨のように射られ逃げていく新羅賊を追撃し、220人を射殺した。また、船11、太刀50、桙1000、
弓胡?(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊一人を生け捕った。
 その賊が言うには、新羅はここ数年、不作が続き、民は餓えに苦しみ、国庫も尽きて王城も例外ではなく、
「新羅王の命令により、日本の穀絹を奪う為に、帆を飛ばして参り来たる」という。
 王の命令による海賊行為であったと、大宰府に捕らえられた賊が証言しているのである。これは明らかに日本人を狙った
侵略である。




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