08/08/11 12:33:21
9日付の日本の新聞を読み、北京オリンピックを冷静な目で見ていることに驚いた。読売新聞は社
説でチベット弾圧・聖火リレー騒動・報道規制などを並べ、中国を批判した。毎日新聞は1面のコラ
ム欄で「中国はまだ“世界が理解できる国”になっていない」と書いた。
日本ではあらゆる分野がそうだが、メディアもめったに興奮しない。20世紀初めに戦争をあおり痛
い目に遭ってからは、少なくとも主なメディアは感情的な論調や表現を排除する慣行を身に染み込
ませているという。
だが、こうした日本メディアが感情を込め、好意的に受け取ったオリンピックがある。それはソウル
・オリンピックだ。開催地選定の際、ソウルが名古屋を破ったため、日本の視線は冷たかったと思う
かもしれないが、実は全く違っていた。
開会式当日の1988年9月17日、日本の新聞各紙が報じたソウル・オリンピック関連記事は150件
以上。かなりの量だ。この日、日本経済新聞が報道した日本選手団の入場の瞬間は次の通りだ。
「(韓国人に)過去の不幸な記憶を思い出させる日の丸だが、スタジアムは拍手が巻き起こった。日
本選手団は韓国の国花であるピンクのムクゲを振り、これに応えた」。読売新聞は日本選手団の旗
手の言葉を伝えた。「涙があふれた。入場行進が1周というのは短かった。スタジアムをもっと行進し
たかった」
当時の裕仁天皇(昭和天皇)の近況も報道された。「天皇陛下は午前9時から正午まで皇居のテレ
ビの前にお座りになり、選手団入場・聖火点火・開会式公演を熱心にご覧になった」。「ソウル・オリ
ンピックの成功は世界の平和と繁栄を望む人類共通の願い」という竹下首相(当時)の発言も主要
ニュースとして報じられた。
親韓派政治家である原田令嗣(よしつぐ)衆議院議員(自民党)は1985年から3年間、NHKのソウル
特派員を務めた。原田議員は「ソウル特派員の発令を受ける前、ほかの仲間と同じように韓国が嫌
いだった」と話す。日本のメディアが「独裁」という暗い面だけを伝えたからだ。「空はひたすら青く、
人々は明るくて驚きました」。原田議員を親韓派にしたのは、ソウル・オリンピックだった。
韓国を冷笑していた青年たちも変わった。毎日新聞の前職・現職ソウル特派員、後任と予想される
韓半島(朝鮮半島)担当記者は全員、1967年生まれ。ほかの日本メディアの韓半島担当も、60年代
後半生まれが多い。大学時代にソウル・オリンピックを経験し、原田特派員のような記者たちが発信
した好意的な報道を通じ、知性を積み重ねてきた世代たちだ。
日本メディアはなぜ、ソウルに好意的だったのだろうか。今、北京についてはなぜ好意を持って伝
えないのだろうか。
当時、朝日新聞は社説で、ソウル五輪がモスクワ五輪の理念過剰やロサンゼルス五輪の商業主
義を乗り越え、スポーツマンシップを取り戻した五輪になったことに大きな意義を見いだした。毎日新
聞は開幕式のルポで、体制が違う中国やソ連にも盛大な拍手を送る韓国国民の姿を感動的な論調
でつづった。
20年前、ソウルは自国を前面に押し出さなかった。ソウルは民主化を通じ内部の和解、12年ぶりに
東西の国々が一堂に会した国際的な和解を達成した後、低く開かれた姿勢で世界を迎え入れた。
今、北京から伝わってくる「強漢盛唐(力強くて繁栄していた中国古代の漢・唐)」の威圧的復古も、
世界の各都市を覆う赤い旗の民族主義もなかった。
北京にケチをつけようとしているわけでは決してない。2002年に世界に向け一方的に「大韓民国」
の4字だけを叫び立てたように、韓国こそ「1988年ソウル」、許しと和合、謙遜(けんそん)と解放の記
憶を完全に忘れてしまったのではないだろうか。今、北京五輪を見て、自分自身を振り返っている。
URLリンク(www.chosunonline.com)
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