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■18世紀に朝鮮・日本の学問が逆転?
~ 日本人学者の夫馬教授、新刊で挑発的問題提起
朝鮮は明・清時代、中国に700回を超える燕行使を送った。命懸けの渡海が必要だった日本にも
12回の通信使を派遣した。朝鮮の外交使節は政治・経済交流だけではなく、当代一流の知識人
として国際的知識交流も担当した。国境を行き交った朝鮮の士大夫(ソンビ)によって東アジア世界
での国際学術大会が可能だったのだ。
朝鮮時代の燕行使・通信使を、当時の国際的学術交流の側面から分析した学術書が最近出た。
朝鮮時代の韓・中・日の知識人世界に総合的に光を当てた『燕行使と通信使』が、それだ。著者
は、日本人学者の夫馬進(ふま・すすむ)京都大学教授。夫馬教授の論文を翻訳して韓国で本の
形にした。代表翻訳者である鄭台燮(チョン・テソプ)東国大学歴史教育科教授は、「韓国学界の先輩
格である朝鮮時代の士大夫の国際的交流に光を当てる作業が、日本の学者によって先に試みら
れた。国内学界は反省しなければならない」と語った。国内学界では最近、燕行使と通信使への
関心が高まっている。しかしこの両者を総合して、当時の知識伝播と受容を国際的視野をもって
本格的に扱った研究は無かった、という指摘だ。
夫馬教授は、当時の朝鮮の士大夫たちが両国の知識人と取り交わした筆談資料を緻密に分析
して、朝鮮の知識世界を解剖した。評価は冷静だ。「朝鮮の士大夫たちは明・清の知識人と対等
の立場で学芸を論じ、『格下』の日本学界に学問を伝授した」という韓国学界の通説を覆す。
夫馬教授の研究によれば、朝鮮通信使たちは日本に一方的に学問を伝授する立場ではなかった。
1719年の通信使だった申維翰(1681~1752年)は、「『退渓集』(訳注:韓国の大儒者、李退渓の
著作集)が(日本の)どの家でも声を出して読まれている」との記録を残したが、18世紀中葉以後
事情が変わったというのだ。朝鮮が宋代の朱子学に埋没しているうちに、日本は伊藤仁斎、荻生
徂徠などによって独自の学問世界を作っていった、という主張だ。夫馬教授は、「1764年の朝鮮
通信使は、日本の最新学術情報の収集に熱心だった。この時、両国の学術関係は既に様変わり
していた」と主張する。
李退渓・李栗谷の学問に対する朝鮮の自尊心と「小中華」意識が、新しい学問に耳を傾けない
「知的停滞」を生んだ、というのが夫馬教授の主張だ。夫馬教授は、「1826年に燕行使の一員と
して北京を訪問した申在植(シン・ジェシク)(1770~?)が清の考証学者たちと行なった論争の中で、
この朝鮮の士大夫は16世紀以降の学者を一人も推挙できなかった」と指摘する。東アジアの知識
世界で朝鮮は孤立していたという評価だ。
鄭教授は、「国内学界が、夫馬教授の主張を挑発的なものと受け止めて頑張ったら良い」と語る。
鄭教授によれば、夫馬教授は朝鮮・清・日本の士大夫らが筆文字で残した基礎資料を解読する
ために、数年にわたり草書を読む方法をわざわざ学ぶほど、学問に執拗な面があるという。朝鮮
の士大夫が残した基礎資料すら国内学界が解読できないのでは、その資料に対する解釈の権威
も日本学界に奪われるほかない、という憂慮だ。
▽ソース:中央日報(韓国語)(2008.07.25 19:31)
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