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文一平(ムン・イルピョン)著、李桓洙(イ・ハンス)訳『文一平 1934年』(サルリム)
「出勤し、対米関係史第28回の文章を書いた。夜に南米倉町(現在の中区南倉洞)の川沿いに
ある魚屋で、生きているコイ2尾を1ウォン20銭で買い、水槽に入れておいた。嫁に食べさせよう
というわけだ。
今朝、新聞社に行って2ウォンを借り、南大門市場に行った…」(8月18日土曜日)
この日記を書いた人物は、日本統治時代の代表的な民族史学者で独立運動家だった湖岩・
文一平(ムン・イルピョン)=1888-1939=だ。
翻訳したのは、政治学の博士号を持つ朝鮮日報文化部記者。
彼は5年前、朝鮮日報資料研究室での勤務中、キャビネットの奥深くに保管されたコピーの束
を発見した。
それは文一平の1934年の日記で、朝鮮日報のロゴが印刷された卓上カレンダーに漢文で綴ら
れていた。
取材の結果、1998年、朝鮮日報資料研究室の顧問を務めていた尹壬述(ユン・イムスル)元釜
山日報社長が中国人骨董商から渡されたものと判明した。
文一平は、1933年4月から1939年4月に他界するまで満6年の間朝鮮日報の編集顧問として在
職していたが、それだけでなく27編の社説を執筆し、事実上の論説委員だったことがこの日記
により初めて判明した。
この日記の存在を報じた訳者は、紙面を通じ、日本の弾圧で変節者が増えている状況に対す
る知識人の苦悩、名の知れた人物の動きや交遊、その日の天気、さらには牛乳・新聞・病院費
など当時の物価までもが仔細に記録されている、と分析した。
4月17日の日記では、東亜日報社主の仁村・金性洙(キム・ソンス)が、文一平の手を取り「どう
して世の中がこういう状況になったのか。節操を守る人を、もう見ることができないだろう」と嘆息
している。崔麟(チェ・リン)のような人物の変節を嘆いているわけだ。
総督府の強力な言論統制の中にあっても新聞紙上で歴史コーナーを執筆するため、八方手を
尽くして資料を収集した話も生々しい。
「髪を切った。3度目のつけだ。(今は)恥ずかしいかもしれない」(2月8日)など個人的生活苦や
、家族に対する気遣いも書き込まれていた。
日本統治時代を激しく生きた一知識人の生が、余すところなく盛り込まれている。
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