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日本の人々は独島(竹島)をさまざまな名称で呼んだことが知られている。はるか昔の7世紀は独島を
‘雁道’と呼んだ。言い替えれば雁がシベリアから日本に渡って来る時、休む場所が独島だった。そ
れで古代日本人たちは独島を‘雁道’と呼んだのだ。
独島を‘雁道’と呼び、地図を描いた人は百済の渡来人、行基という僧侶だった。行基は日本古代社
会で有名な人物だった。日本古代仏教の大僧侶として奈良の東大寺を創立したし、土木工事や耕作方
法など新しい技術を伝えながら、日本古代国家に寄与したところが大きな人物だった。
行基は日本列島で布教しながら直接目で見て最初の「日本図」という地図を作り上げた人物だった。
彼が作った地図に「雁道、雖有城非人、新羅国、五百六十六国」と記録した。言い替えれば「雁道」
は人が住まない場所で、独島は新羅の地であり、新羅は566郡あると記録したのだ。これが日本で最初
の地図で、当時の朝鮮や中国でもなかった時代の最も古い地図だった。
行基が作った「日本図」は今、東京金沢文庫蔵に所蔵されており、日本でもとても有名な京都仁和寺
にも保管されている。さらに、この地図を見て1662年9月に製作した「扶桑国之図」もある。この地図
にも独島を‘雁道’と記載し、日本で最初の西洋測地法によって作られたものだと言う。製作者は京
都の寺町二条で暮す寺田重兵衛だ。製作者は元々西洋学を専攻した人で、また地方史を多く研究した
人だ。このように7世紀から17世紀まで新羅の土地だった、ということを二つの地図を見ても分かる。
古代日本人は‘雁道’を通って雁が遠い海上から飛んで来る時、独島で休んでから日本へ来る時に海
で休むために木の葉をくわえて飛んで来たという伝説がある。独島から飛んで来た雁は日本で過ごす
間に、病死や事故死で帰れなかった雁もかなり多かった。死んだ雁のために、今日まで慰霊祭を執り
行なう風俗が残っている。日本列島でも独島に向かい合う島根県の人々が祭ると言う。死んだ雁を追
慕する風俗を雁風呂と言う。これは、風呂場に季節によって木の枝葉を入れて風呂に入る風俗を言う。
(中略)
今回の地図の調査で、古代の日本人は独島に‘雁道’すなわち鳥たちの島という名称を付けていたこ
とが分かった。我が国は独島を新羅智證王の時から于山国といったが、日本は古代から17世紀までは
‘雁島’といったということを日本の人々も知っている人は知っている。
金文吉(キム・ムンギル)釜山外大教授
ソース:(韓国語)日本古代(奈良時代)時、独島を新羅地雁道島と呼んで
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