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巻第二十二 推古天皇 聖徳太子の摂政の条
「(595年)五月十日、高麗の僧恵慈が帰化した。皇太子はそれを師とされた。」
同 新羅征討の条より
「(602年)閏十月十五日 高麗の僧僧隆・雲聡が来朝し、帰化した。」
同 名工鞍作鳥の条
「(605年)高麗国の大興王は、日本の天皇が仏像を造られると聞いて、黄金三百両をたてまつった。」
同 遣隋使の条より
「(610)十八年春三月、高麗王が僧曇徴・法定らをたてまつった。曇徴は五経に通じており、絵具・紙・墨などを作り、水力を用いる臼をも造った。」
同 太子と飢人の条より
「(618)二十六年秋八月一日、高麗が使いをおくり、土地の産物をたてまつった。そして、「隋の煬帝は、三十万の軍を送って我が国を攻めました(攻略)」。」
同 聖徳太子の死の条より
「(621)このとき高麗の僧恵慈は帰還していたが、太子の薨去を聞き大いに悲しみ、太子のために僧を集め斎会を催した。」