08/05/02 22:28:55
★偏向からの開放を試される「踏み絵」
樋口尚文
『靖国 YASUKUNI』(中略)
■どこが峻烈なクレームの対象になったのか?
上映中止騒動で一躍「時の映画」となった『靖国 YASUKUNI』を、はたしてこんな騒ぎにならなかったら
観ていたかどうか。作品名こそ認識してはいたが特段観にゆくつもりもなかった私も、物見高い性分ゆえ
急に一見しないわけにはいかない気分になった。
さて、いったいどんなに物騒な場面やメッセージがあるのやらと興味津々で本作を観終えた私は、(過敏に
眺めればそれは若干物議を醸しそうな箇所は散見したものの)いったい本作のどこが特に峻烈なクレームの
対象になったのかが今ひとつ特定できず、ネットで本作をめぐる発言やインタビューの数々を見直してみた。
その結果、主なところは(1)靖国神社の神体は神鏡や神剣だと諸説あるが、少なくとも「靖国刀」を神体と
するのは誤りではないか。(2)日本軍の中国における残虐な斬首写真が頻出するが、これはかねて日本軍
批判に用いられてきた出処不明の映像であり真偽が疑わしい。(3)同じく中国での軍の蛮行を批判するために
某少尉の「百人斬り」の新聞記事が引用されるが、この記事自体の真偽が怪しい。(4)撮影はゲリラ的に
行われたものが多く、許可なしに多数の一般市民が写されていたり、90歳の刀匠のように本作全体の意図を
聞かされていない市民にインタビューを試みているのは道義的に許されるのか…おおむねこんなところだろうか。
■ドキュメンタリーとしての倫理も担保にした「怪しさ」
私はこれらのいちいちを否定しないし、むしろこの指摘のように、本作に散らばる必ずしも正確ではない解釈や
出処不明の映像などにある「怪しさ」を感じた。だが、その「怪しさ」が作者によってあえて放流されていることで、
本作のドキュメンタリーとしての倫理も担保されているような気がしてならない。つまり、良識ある市民がこの
作品を観たとき、合祀や参拝にヒステリックに支持や異議を唱える人びとにも違和感、距離感を覚えるかも
しれないが、かといって「虐殺写真」に揺さぶられて天皇制や民族意識を激しく否定するようなこともないだろう。
喧騒に満ちた映画『靖国 YASUKUNI』は、いわば靖国神社という日本人をどうにも過敏にさせるイコンを核として、
それをめぐる位相の異なるさまざまな言説や映像の洪水をわれわれにつきつける。だが、その際監督は、
それらの要素のいずれかをことさらに強調するでもなく、むしろ無表情に同列に陳列してみせる。つまり、
信憑性のありそうな誠実な談話も、「怪しさ」を伴う風評や写真も、そのまま峻別されることなく等価に並べられ、
判断はわれわれに委ねられる。結果、ここに特定の極端なる意図を見出した観客は、むしろ自らの特定の
意思に呪縛されているということにもなりそうである。
■いかにあらゆる偏向から自由になれるかを問われる
実際、続々と斬首の写真を連鎖させたかと思えば、閲兵する天皇に皇軍が一糸乱れぬ姿勢で敬意を表明する
ような映像は、監督がそこにある種の神秘性と美しささえ感じているかに見える。この振幅は、たとえば迫真の
ニューズリールとともに挿入される出処不明の記事、怒号じみた演説に対する冷静で思惟的な呟きといった
対置によって全篇に反復され、その果てにわれわれ観る者が到達するのは、一部のクレームにあったような
「偏向した思想、政治性」ではなく、むしろ厳格な中立のまなざしだろう。
これは、あらゆるすぐれたドキュメンタリーに共通するものだ。
映画『靖国 YASUKUNI』に連続する映像と言説の嵐は、そのかまびすしさが増すほどに、観る者を思考の緊張
にいざなう。本作は、たとえばわれわれに思想的なライト/レフトを問う偏向した「踏み絵」ではなく、われわれが
この喧騒のなかでいかに強靭かつ冷静な思考を維持して、あらゆる偏向から自由になれるかを問う「踏み絵」
なのである。
かつて若き日の大島渚が朝鮮人の日本軍傷痍軍人を追ったドキュメンタリーの傑作「忘れられた皇軍」も、
通り一遍の軍国主義批判を通過して、そういったものの彼岸にある被取材者の(「怪しさ」も含めての)生の凄みに
ふれていたが、『靖国 YASUKUNI』が秘める作者のラディカルな視点も同様のベクトルを感じさせるものだ。
(Variety Japan 2008/05/03)
URLリンク(www.varietyjapan.com)
(関連)【映画評論】外国人の視点で、広く、鋭くなった日本映画~「靖国 YASUKUNI」[05/02]
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