08/03/30 13:05:36 RG/OfXUC
台湾の「花咲爺さん」 王 海清
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台湾の内陸部に位置する南投県埔里の町。この埔里から霧社まで、約二十数キロの山道に、いまも
桜の木を植えつづけている方がおられます。今年、八十三歳をむかえた王海清さんです。
お訪ねしたのは、一月末でしたが、沿道には王さんが植えられた、うす紅の山桜の花が満開でした。
高雄に花咲く同期の桜
王海清さんは、日本の統治時代に国民学校で六年間、日本の教育をうけました。そのとき、
いちばん心に残ったのが、国語の教科書にのっていた「サイタ サイタ サクラガ サイタ」でした。
子供心にも、まだ見たこともない桜へのあこがれが、このころに芽生えたといいます。
そして昭和十七年、王さんは志願兵として、高雄の海軍陸戦隊に入隊。「徴兵じゃないよ、志願兵だよ」と、
王さんは何度もほこらしげに話されます。そして、そのときにうたった『同期の桜』を、うたってくださいました。
「貴様と俺とは 同期の桜
同じ高雄の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散りましょ 国のため
これ、日本時代の兵隊の歌。パッと咲いて、パッと散る。サッと散るのは、お国のために死にましょう
という心。歌って、思って、考えてみたよ。これが桜にこめた日本人の心だよ」
黙って、ひとりで始めること
沖縄での激戦に参戦するために、高雄で待機していた王さんの部隊でしたが、輸送船がつぎつぎと
撃沈されたために、そのまま終戦を迎えました。
戦後まもなく、王さんが移り住んだのが霧社でした。そこには、日本人が植えた桜が、
数百本も残っていたのです。それが、王さんが生まれてはじめて目にした桜でした。
「桜を見た、うれしかった。ああ、これが桜だ、と思った」
ところが、その桜が、道路拡張工事のために、一本残らず切り倒されたのです。王さんはそれが残念で
たまらず、村の役場や有力者の人々をあつめて、桜を植える相談をしました。だれが何本、だれが何本と、
桜再生の相談はまとまりましたが、いつまでたっても、だれひとりとして、桜を植えようとはしません。
そこで王さんはひとり、だれにも告げず、日本人が植えた桜の種から育てた苗を、霧社から埔里へ
の沿道に植えはじめました。その数はなんと、一年間で三千二百本。
「これが日本精神だよ」
つづく