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シンヨンハ教授の獨島百問百答 「領土編入」
Q60.(勅令第41号)
大韓帝国政府は日本側の無誠意かつ傲慢な反応にどう対応措置をとったのか?
ANS.大韓政府は鬱陵島・竹嶼島・独島をまとめてひとつの「郡」となし、
地方行政上の格上げをし、鬱陵島に「郡守」を常駐させ、島の守護と行政管理
を強化するようにした。
すなわち、内部大臣・李乾夏は1900年10月22日、鬱陵島・竹嶼島・独島を
くくって「鬱島郡」を設置し島監の代りに「郡守」をおく地方制度改定案を議
政府に提出した。改定案は1900年10月24日、議政府会議(内閣会議)にて8対0
の満場一致で通過し、皇帝の裁可をえた。
これに大韓帝国の政府は、1900年10月25日付の勅令第41号において全文6条
からなる「鬱陵島を鬱島に改定し、島監を郡守に改定する件」を「官報」に掲
載し公布した。
鬱陵島は、それまでは鬱珍郡守(時には平海郡)の行政下にあったが、大
韓帝国のこの勅令にしたがい江原道の独立した郡に昇格した。そして鬱陵島の
初代郡守には島監であった?季周が奏任官6等に任命され、ついで事務官に崔
聖麟が任命され派遣された。
ここでわが主題と関連して注目すべきは、第2条の鬱島郡の「区域は鬱陵
全島と竹島 石島を管轄す」という部分である。ここで竹島が鬱陵島すぐ横の
竹嶼島をさすことは李奎遠の「鬱陵島検察日記」で確認される。
そして石島が獨島をさすことは間違いない。当時、鬱陵島住民の大多数は
全羅道出身の漁民であったが、全羅道の方言では「Dol(石)」を「dok」とし、
「Dol Seom(石島)」を「Dok Seom」とよぶ事実はよく知られており、大韓帝国
政府は「石島」を意訳して「石島」としたのである。
鬱陵島で初期移住民の民間呼称である「Dok Seom」「Dok Do(島)」を、意
味をとって漢字で表記すれば「石島」になり、発音を重視して表記すれば「獨
島」になるのである。
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