08/02/29 16:20:42 BE:749260894-2BP(999)
ソース:東亜日報(依頼スレ887さんの依頼で記者がハングル記事を翻訳)
URLリンク(www.donga.com)
友達でも,、仲間でも、親戚でも私がどれだけその人を大事にするかどうかということを見積
る時に見られる尺度がある。その人に良いことが生じたという消息を聞いた瞬間に嫉妬が
生ずるのかどうかということだ。
アパートの値段がすごく上がったという消息、子供が一流大学に入ったという消息….
電話の向こうで聞こえる慶事に"よくやったね"を連発して心より祝っている瞬間でも心の隅
では妬む心が少しずつ染み出ている場合が少なくない。
親子など”自分の血縁”に生じた嬉しい事にはひたすら喜びだけで接するのに、その垣根を
脱したときは嫉妬が生じて大変な理由はなぜだろう。
おもしろい点はその人と私が年齢や社会的位置がどれくらい似ているか、その事が私にも
出来るのかどうかという蓋然性がどの程度かによって嫉妬の濃度が影響を受けるのだ。
特に自分より優れているような点が無いような人が玉の輿に乗ったりした時は嫉妬が濃く
なる。
客地にあるせいだろう。”一生の内で私たちが結ぶ関係の中に嫉妬から完全に自由な、100%
心より一緒に喜び悲しんでくれる、そんな関係はあまり多くはないようだ”と言う考え。ゆえに
そんな関係で結ばれた人々はもっと大事だという考えがしみる。
実は突然嫉妬の話を取り出した理由はアメリカ大統領選挙を取材しているときに受けた少々
苦い感じのためだ。
「あらら、黒人はまだやってるんですか。私たちは彼らを相手に商売をして知ってるのに…。」
(>>2以降に続く)