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邪馬台国の卑弥呼からの正使・難升米(なしめ)が魏の都・
洛陽にたどり着いたのは、西暦239年の夏6月だった。魏の
大将軍・司馬仲達を翻弄した蜀の名将・諸葛孔明が亡くなった
のは、その5年前。蜀は、皇帝・劉備玄徳、名将・関羽、張飛
ら「三国志」の英雄たちを亡くし、今後は四川省の山また山の
領地を細々と守っていく他はない、と見られていた。
あとは、孫権率いる江南の呉をいかに叩きつぶすか、が司馬
仲達に残された課題だった。司馬仲達はまず、孫権と結んで不
穏な動きをみせている遼東の公孫淵を、自ら4万の軍勢を率い
て滅ぼした。こうして平定された朝鮮半島と遼東を通って、邪
馬台国からの正使一行が魏にやって来たのである。
司馬仲達は、これを大いに喜んだ。邪馬台国については、朝
鮮半島の出先機関である帯方郡役所から、かなり詳しい情報が
送られていた。それによると、女王の都のある邪馬台国だけで
7万戸、人口約50万人。それに服属する約30の国々を合わ
せると15万戸、120万人に上るという。人口では、公孫淵
の建てた燕の国の4倍、さらに蜀よりも大きい大国である。