08/01/16 06:13:18
少年はいきなり声を掛けられ、場所が怪しげな海賊版の店だったからか、
一瞬戸惑ったようだった。
しかし私が、
「私は日本人よ。私も中国語で書かれた日本漫画を買いに来たんだ」と言うと、
少年はいきなりうれしそうに笑って、
「そうなんですか! もちろん日本動漫、大好きです」と中国語で言った後、
日本語で「こ・ん・ち・わ」と言った。
おそらく日本動漫を通して学んだ日本語だろう。
「ね、日本のこと、どう思う?どんな印象を持ってるかな」とたたみ掛けた私に、
少年は目を輝かせて声をはずませた。
「そりゃあ、日本は最高ですよ!だって、こんなすごい動漫を出す国だもの」
ああ、日本側が知らないうちに設置されていた日本文化装置は、
こんなすみずみにまで浸透していたのか。
■あの天津の日から50年
この少年と同じくらいの年のころ、小学生だった1950年代、中華人民共和国が
誕生した後も中国に残り天津に住んでいた私は、自分が日本人であることを
知られないように、いつもおののいていた。
日本人であることが周囲の中国人に知れると、「日本鬼子!」(日本の鬼畜生)と
罵られ、石を投げつけられたり、唾を吐き掛けられたりしたからだ。
あれから半世紀以上の月日が流れ、そして日本動漫という文化装置が海賊版業者の
手によって中国大陸に持ち込まれてから、20年あまりの年月が経とうとしている。
この20数年間で、中国の若者の精神文化は、日本アニメの放映解禁を求めて
テロ行為に走るところまで変化している。
私が日本人だとわかると、街の少年の目が輝き、「日本鬼子!」という罵声の代わりに
「こ・ん・ち・わ」というたどたどしい日本語が戻ってくるところにまで変化している。
その変化をもたらした大きな力のひとつは、まちがいなく動漫である。
日本の大人、中国の大人が「たかが漫画」「たかがアニメ」と思っていた動漫である。
中国と日本の間を、人生でも仕事でも心の中でも行ったり来たりしてきた私は、
よもや漫画やアニメが「あの中国」をここまで変えるとは思ってもみなかった。
この流れはもはや押しとどめることはできない。そんな気がする。
先ほどの少年は、お目当ての日本漫画の海賊版を手に店を出ていった。
すたすたと歩いていく少年の背中と、かつてびくびくしながら背中をすぼめて
中国の路地を歩いていた自分の姿を重ね合わせて、私はしばし、呆然としていた。
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※以上です。