08/01/13 21:46:52
>>1の続き
呉国を立てた延烏郎(ヨンオラン)
僧一然が編纂した三国遺事に、およそ次のような文が残っている。「第八代阿逹羅(アダルラ)王巳
年(四年)に東海辺に住んでいた延烏郎(ヨンオラン)という人が日本に渡ってその地域の王様になっ
た。」阿逹羅王巳年(四年)は西暦157年に当たる。そして、延烏郎の'延(ヨン)'は浦項(ポハン)近
くにある「延日(ヨンイル)」という村の名前を減らして示したものだ。その場所は正しくオ(呉)氏
の「本貫(ホンガン)」がある場所であり、延烏郎の'郎(ラン)'は若い男をさす言葉であることは
明らかだ。
延烏郎が立てたという呉国は、日本史にオー・クニ(大国)と書かれており、王になったと言う延烏郎
は、「オー・クニヌシノ・ミコト(大国主命)」と記録されている。彼らが支配していた地方は今の島
根県地域だ。延烏郎が東海(日本海)を渡った当時の日本列島は、カラ族(=太陽崇拜族)と高句麗の前
身である「オロ族」が暮していたが、熊信仰族に転向した首露王の子孫に征服されていた。
大国主命と呼ばれた延烏郎の子孫も、海軍を率いて島根県の出雲市の稲佐の浜に奇襲上陸した首露王
の子孫に降伏しなければならなかったことを付け加える。