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【韓国/新刊】3000万人を運んだ「関釜連絡船」の歴史[01/06] - 暇つぶし2ch1:超イケメンマスク( ヽ´`ω´ )φ ★
08/01/06 10:00:51
【新刊】チェ・ヨンホ、パク・ジヌ、リュ・ギョヨル、ホン・ヨンジン共著『釜関連絡船と釜山』(ノンヒョン)

1905年9月、韓国の釜山と日本の下関の間を運航する1680トン級の船「壱岐丸」が就航した。
ソウルの永登浦駅と釜山の草梁駅を結ぶ京釜線の開通から8カ月後のことだった。
日本は露日戦争(日露戦争)に勝利しポーツマス条約を締結、大陸進出のため日本と朝鮮を結ぶ
交通網の構築を完了した。

いわゆる「関釜連絡船」は、1945年の日本の敗北時まで、40年に渡り3000万人以上の乗客を運ん
だ。植民地経営のため港を出発した帝国のエリート、近代文明を教わった植民地知識人、より良い
生活の基盤を求めて旅立つ朝鮮と日本の人々が船に乗った。

チェ・ヨンホ(霊山大)、パク・ジヌ(淑明女子大)、柳教烈(リュ・キョヨル)(韓国海洋大)、ホン・ヨンジ
ン(釜山市史編纂室常任委員)ら国際関係学と歴史学を専攻する学者4人は、「釜関連絡船」を通じ、
日帝強占期の民族移動と民間交流の一端を探求した。
チェ・ヨンホ教授は、釜関連絡船の歴史と乗客数の年度別推移を分析し、大陸進出もしくは日本渡
航の拠点としての釜山の地理的特性を明らかにした。
パク・ジヌ教授は、釜山の日本人居留地形成と日本人の経済活動を研究した。
「文明」たる日本が「野蛮」たる朝鮮に入って来る入り口だった釜山には、朝鮮が植民地に転落する
わずか2年余りの間に2万5000人もの日本人が住み着いた。
山口県と長崎県の出身者が圧倒的に多く、日本人商人の大部分は高利貸も兼業していた。

柳教烈教授は、渡航証明制度の研究を通じ、日本が朝鮮人の渡航を制限したのは強制動員中心
の労働市場政策と連結したものだった、と説明した。
ホン・ヨンジン委員は、日本の敗戦に伴う航路の変化に注目した。
敗戦直後、日本は米国の攻撃で停泊が難しくなっていた下関の代わりに、博多と仙崎を引揚港に
指定した。
敗戦直後に引き揚げた日本人は26万8895人で、日本から朝鮮に戻って来た朝鮮人は94万438人
だった。

URLリンク(www.chosunonline.com)


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