07/12/25 03:17:21 7n7BMzl9
アナゴさん何とか言ってやれ
122:ハンガリータイガー
07/12/30 10:48:07 /rY65vLa
●半月城先生の最新見解
朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判1
半月城です。
下條正男氏の「事実求是」を読んで、どうしてもコメントを書かずにはいられない心
境です。同氏は、Web竹島問題研究所のホームページ「事実求是」第1回、「朴世堂の『鬱
陵島』 」において韓国海洋水産開発院の柳美林博士が「漢文が読めないための誤謬」を
おかしたと断言し、こう記しました。
--------------------
朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは
遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。
に もかかわらず柳美林氏は、朴世堂の「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠から
ず」を、「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と 読み誤った。
柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返
したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である(注1)。
--------------------
下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注
2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于
山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが
No.16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」
と訳されます。
すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏
は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理な訳しました。これは下條氏が
「韓文が読めないための誤謬」というより「故意」の我田引水をおこなったというべきか
も知れません。下條氏は記事を『世宗実録』地理誌と結びつけて、こう記しました。
--------------------
日韓はこれまで、この「二島相去ること遠からず」の解釈で争ってきた。韓国側は「二
島相去ること遠からず」に次いで「歴々見える」の一文があるため、欝陵島から竹島が「見
える」と読み、欝陵島から竹島が見えることが、竹島を韓国領とする証拠としてきた(注
1)。
--------------------
下條氏は、柳博士が韓国側の旧来の説を繰り返すために、朴世堂の『西渓雑録』を誤
読して引用したと主張しているようです。しかし、そのような重大な指摘をする元ネタが
新聞記事とは情けない話です。その記事には取材源が次のように記されました(yabutarou01
さんの訳)。
--------------------
韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員であるユミリム(柳美林) 博士は最
近この開発院が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期朴世堂・1629~1703)」
が書いた「鬱陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかに
された」と述べた。
--------------------
(つづく)
123:ハンガリータイガー
07/12/30 10:49:30 /rY65vLa
朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判2
下條氏は「海洋水産動向」1250号をきちんと確認せずに、新聞記事を誤読し、柳博
士が「誤謬」をおかしたなどと書くのは余りにも独善的ではないでしょうか。同書にて柳
博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読み
くだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。つぎに同書の関連部分を紹
介します。
--------------------
「海洋水産動向」1250号
「于山島は独島」を立証する朝鮮時代の史料を発掘
・・・・・
朴世堂(注3)の「欝陵島」(注4)は大きく四部から構成されている。
第1部は『新増東国輿地勝覧』を引用した部分
第2部は、壬辰倭乱の時に捕虜として捕えられ、日本の船に乗り、欝陵島へ行って帰っ
た僧侶から聞いた話を記録した部分
第3部は 1694年9月2日に張漢相が軍官の報告を元に備辺司へ報告した内容
第4部は同年の1694年9月20日から10月3日まで張漢相が捜討した状況を備辺司へ報告した内容からなる。
この中で第4部は張漢相の『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じである。朴世
堂は第2部、前述の僧侶から聞いた話を伝え、自分の意見を加えたが、ここで于山島が独
島であることを物語る重要な記述が次のように含まれている。
「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとた
び大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていな
いとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」
このような内容がまさに于山島が独島であることを証明する重要な根拠といえる。上
の文章をつうじて我々は次のような事実を知ることができる。
第1にこの文で欝陵島と于山島が明らかに違う島と区分される点である。
第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており、これから于山島は少なくとも欝陵
島近隣の島を指すものではないという点が明らかになったのである。
第3に于山島が欝陵島より少し低いところにあるので、欝陵島からは簡単に見ることが
できないということを知ることができる。欝陵島が于山島より少し高いので、天候が晴れ
ているとか、高いところへ登って初めて于山島が見えるとしたためである。
第4に上に述べたように、朴世堂の記録は張漢相が于山島に対し、「東側に海を望んだ
ところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」と表現したこととぴったり合う点
である。
張漢相は聖人峰から東南方向に島が一つかすかに見えるとしたが、朴世堂の記録は于
山島は非常にくっきり晴れた日に欝陵島の高いところだけで見えるとした。こうした事実
を考慮すると、朴世堂が語る「于山島」は張漢相のいう、まさに「かすかな島」に該当す
る。
欝陵島から離れていて、くっきり晴れた日に高いところだけから見える島は現在の独
島以外にないためである。したがって、結論をいうと朴世堂のいう于山島と、張漢相のい
う東南方向の島は現在の独島をさすのは明らかである。
--------------------
余談ですが、柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を購読してきた方です(注
6)。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めないため
の誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょうか。
蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらいは先
刻承知済みでしょうが。
(つづく)
124:ハンガリータイガー
07/12/30 10:50:16 /rY65vLa
朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判3
(注1)Web竹島問題研究所のホームページ「事実求是~日韓のトゲ、竹島問題を考え
る~」第1回 朴世堂の『鬱陵島』
URLリンク(www.pref.shimane.lg.jp)
(注2)朝鮮日報記事「于山島はやはり独島であった」2007.12.4
URLリンク(news.chosun.com)
(注3、柳博士の注)朴世堂は17世紀の思想界を風靡した碩学であったが、自由奔放な
思惟体系のために、当時朱子学を信奉していた老論学界により「斯文乱賊」と罵倒される。
彼の文集『西渓集』は『韓国文集叢刊』に入っているが、「欝陵島」が載っている『西渓
雑録』は刊行された文集には入っておらず、未分類資料となっている筆写本である。この
ため、史料の存在が一般に知られていない。
(注4、柳博士の注)「欝陵島」は、朴世堂が他人の文と他人から聞いた話を引用して自
身の意見をつけ加える形になっている。朴世堂はこの文において「欝陵島」と「于山島」
を確然と区分して言及している。彼の言及から推論すると、于山島はまさに独島を指すこ
とが明確に知ることができる。
さらに朴世堂が生きた時代は安龍福事件があった時期であり、朴世堂は当時、安龍福
事件で重要な役割をはたした領議政・南九萬の妻の兄弟である。南九萬は死刑を受けた安
龍福を配流の刑に減軽するのに大きな功績がある。
朴世堂と南九萬がしばしば書信のやりとりをしていた事実からみて、朴世堂は南九萬
から安龍福が日本へ渡った事実と、そこで欝陵島に対する領有権を主張して来た事実を聞
いていたと推定される。全16頁からなるが、筆写本の状態が良くなく、時折欠字がある。
(注5、柳博士の注)この部分は、朴世堂が僧侶から聞いた話を記した後、自身の説で締
めくくったのだが、他人の文を転載した可能性も排除しがたい。そうだとしても、この文
が当時、于山島に関する朝鮮人の意識を明らかにしている点で著者が朴世堂であろうとな
かろうと問題にならないと考えられる。
(注6)「西渓集を読む集い」(韓国語)京郷新聞、2007.2.9
URLリンク(kr.news.yahoo.com)
(半月城通信)URLリンク(www.han.org)
URLリンク(messages.yahoo.co.jp)
125:(´・ω・`)←自治スレでスレ違い雑談議論中
07/12/30 10:53:29 Zu99bvwn
また壊れた蓄音機の半月城先生のコピペか。同胞として恥ずかしいよ。
これみるといいよ
URLリンク(www.enjoykorea.jp)
アメリカも竹島は日本領だと明言してるし
内藤教授や半月城先生のように些細なことと意味のない机上の戯言に比べてはるかに説得性があるからね。
126:ハンガリータイソー
08/01/05 20:27:01 ASApvupI
●半月城先生の最新見解
「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』1 2008/ 1/ 3 21:47 [ No.16083 / 16087 ]
半月城です。
『西渓雑録』に書かれた僧の記事はなかなか興味を引きます。特に僧が「壬辰の
乱で日本へ俘虜として入り、丙午年に倭船にしたがって欝陵島へ至った」とするく
だりは歴史の生き証人としての証言だけに注目されます。
僧は欝陵島の情景を詳細に語っていることなどから、上記の一節に関するかぎ
り、ほぼ信頼できそうです。これが史書からも裏付けられるのかどうか考察したい
と思います。
まず、壬辰の乱とはいうまでもなく、1592年に豊臣秀吉が朝鮮を侵略した無謀
な文禄の役を指しますが、日本軍は慶長の役とあわせて、朝鮮人を5万人ないし7
万人も日本へ拉致しました。薩摩焼の沈寿官さんや、戦時中の東郷外相などはそう
した子孫の一人として有名ですが、拉致された人びとのほとんどは日本に残りまし
た(注1)。
それも無理ありません。何しろ戦後処理の遅れから、被虜を連れ戻す公式の刷
還使が日本へ派遣されたのが、なんと10年も経た1607年であり、その時は被虜本
人もほとんどが日本に定着して帰国を望まなかったのでした。また、被虜の主人や
藩も被虜が帰国するのをほとんど望まなかったのでした。
しかし、対馬だけは別でした。対馬は侵略戦争により朝鮮との交易を完全に断
たれたので、糧道を断たれたも同然でした。良田の少ない対馬は、魏志倭人伝の時
代から交易が命でした。宗義智は朝鮮との交易を再開すべく懸命な努力をしました。
その一環として、朝鮮へ誠意を示すべく、被虜人の送還を積極的に行ないました。
1600年、対馬にいた被虜 300余名、翌年には250名を朝鮮へ送り届けましたが、
これらの努力が功を奏し、朝鮮もやや軟化し始めました。05年に朝鮮から講和のさ
きがけとして松運大師を招き、徳川家康と対面させるまでにこぎつけました。松運
大師は加藤清正と戦った義兵僧でした。
その時の話し合いで被虜の送還が決まり、対馬はさっそく手始めに被虜 1200人
を送還しました。その後も、対馬は被虜人を積極的に各地から集めるのに躍起でした。
その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。
一方、対馬と欝陵島とのかかわりですが、古くは室町時代 1407年にさかのぼり
ます。宗貞茂は、朝鮮の太宗が欝陵島を空島にしたことをかぎつけたのか、朝鮮に
土産物を献上し、倭寇の被虜を送還して、茂陵島(欝陵島)に対馬島民を移住させ
たいと申し出ました。これに対して太宗は、それを許すと、幕府と対立する謀反人を
入れることになるという理由で許可しませんでした。
その後、対馬は豊臣秀吉の朝鮮侵略の先導をになうのですが、そのころ、対馬か
ら欝陵島へ渡航していた人がいました。それは鷺坂(磯竹)弥左衛門・仁右衛門親子
ですが、幕府の『通航一覧』によれば、元和6(1620)年に竹島(欝陵島)で潜商の罪
で捕えられました。ただし『通航一覧』は続けて『対州編稔略』を引用し「潜商の事
とも定めがたく」と記しました。どうやら親子の活動は公認の事業であったようです。
関連記事は、1617年に朝鮮使節の従事官として来日した李景稷の旅行記である
『李石門扶桑録』にも記されました。それについて中村栄孝はこう記しました。
--------------------
(『李石門扶桑録』)記事のなかで、対馬の老臣 柳川調興が、伏見で、土井大炊助
利勝と朝鮮のことを語ったさい、利勝から、磯竹弥左衛門のことをのぼらせたとある
のは、注目すべきところである。秀吉の許可をえて、「礒竹島」へ渡り、材木などを
取ってかえり、その縁故で「礒竹弥左衛門」とよばれた日本人があった。かれは、そ
の後、この島への渡航によって生活し、歳役を納めていたというのである(注2)。
--------------------
(つづく)
127:ハンガリータイソー
08/01/05 20:27:21 ASApvupI
「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』2 2008/ 1/ 3 21:50 [ No.16084 / 16087 ]
弥左衛門は歳役を納めていたので、やはり竹島(欝陵島)で公認の事業をしてい
たようです。しかも、かれは公儀から御朱印をもらっていたようで、中村栄孝は
「柚谷記に曰、磯竹島は、昔、鷺坂弥左衛門父子、渡此島 陰(ママ)居、自公儀以
御朱印」と紹介しました(注2)。
磯竹島に倭人が入り込んでいたことは朝鮮史書『芝峰類説』にもあり、「壬辰
變後 人有往見者 亦被倭焚掠 無復人煙 近聞倭奴占據 礒竹島 或謂礒竹 即蔚陵島也」
と記されました。すなわち、壬辰の変以後、倭人が礒竹島(蔚陵島)を占拠したとさ
れました。これは弥左衛門親子の居住をさすものと思われます。
そうした実績に立ち、対馬は欝陵島を自国領にすべく、1614年、朝鮮に対して竹
島(欝陵島)は日本領であると言いだしました。これを『通航一覧』は「宗對馬守 義
智より朝鮮國東莱府使に書を贈りて、竹島は日本屬島なるよしを諭せしに、彼許さず、
よて猶使書往復に及ぶ」と記しました。ただし、同書はこれを慶長17(1612)年の
こととして書き、注で『朝鮮通交大紀』では慶長19年のこととしていると記しまし
た。
これに対応する記事が『光海君日記』1614年9月2日条に見えるので、対馬の申
し入れは慶長19年が正しいようです。朝鮮は対馬の主張をもちろん受けいれるはず
はありません。東莱府使の尹守謙は「いわゆる磯竹島は、これ我国の欝陵島なり・・
・・・貴国の我国に来往するは、ただ釜山一路を除くのほか、皆海賊をもって論断せ
り」と回答したことが『通航一覧』巻137に記されました。
以上のように、弥左衛門親子は慶長年間に豊臣秀吉や対馬国の公認のもとに竹島
(欝陵島)で活動していたことは史料からも裏付けられます。したがって、その時に
『西渓雑録』に登場する僧が対馬から弥左衛門親子にしたがって欝陵島へ渡航したこ
とは充分あり得ます。僧は日本人と行動した時のことをこう語りました。
「(欝陵島で)倭人が竹を伐り、薬草を採っていた。自分が船に残り留守番をして
いたところ、横の船に同じような俘虜が七人いたので、夜、一緒に語り合った。ちょ
うど暁どきに船を出して以来、日が申時(午後3-5時)にはもう寧海の地に着いたと
云う」(韓国人研究者訳)
この伝聞によると、僧は俘虜7人とともに欝陵島から寧海へ行ったとされますが、
それが可能かどうか疑わしいところです。俘虜の送還は対馬から朝鮮の東莱府へなさ
れているので、俘虜を欝陵島経由で送ることは考えられません。ただ、俘虜たちが欝
陵島から逃げて寧海へ行ったとするなら、まだ少しは可能性があるかもしれません。
いずれにせよ、僧の話には多少の脚色があるようです。ま、僧が俘虜として日本
へ行った話だけは信じられるとしても、欝陵島から寧海へ行ったという話は、実は倭
人に随った時のことではなく、別な機会に朝鮮から往復していたのかも知れません。
そこで思い当たるのは、弥左衛門親子が「潜商」であった事実です。彼らは欝陵
島で単に木の伐採だけを行なっていたのではなく、交易の途絶えた朝鮮とは欝陵島を
中継地点にして密貿易をおこなっていたのではないかと想像されます。
ところで、話はかわりますが、下條正男氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記
事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである」として
いますが、朴世堂が僧から直接話を聞いたかどうかは疑問です。
ここで注意すべきは、すでに紹介されているように『西渓雑録』の「欝陵島」は
同書だけでなく『臥遊録』にも登場することです。時期的にはどうやら『臥遊録』の
ほうが古いようです。韓国蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの記事を扱ってお
り、その中に「欝陵島」が記載されているので、その頃に「欝陵島」の話は完成して
いたと見られます(注3)。
それに対し、朴世堂『西渓雑録』は「欝陵島」以外に張漢相「蔚陵島事蹟」も載
せているので、同書の成立は1693年以降、亡くなる 1703年以前と思われます。した
がって、朴世堂が『臥遊録』の文をそっくり転載したか、あるいは両書共通の種本が
あったと見られます。朴世堂の経歴からすると(注4)、そのころの朴世堂は種々の
情報を容易に得られる立場にあったようです。そのために「蔚陵島事蹟」の転載も可
能だったと思われます。
(つづく)
128:ハンガリータイソー
08/01/05 20:27:53 ASApvupI
「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3 2008/ 1/ 3 22:10 [ No.16086 / 16087 ]
両書の前後関係はともかく、ここで重要なのは「欝陵島」の記述が性質も時代
も違う二書に記述されたことです。これは取りも直さず、その話が17世紀半ば以降
は広く知れわたっていたことを意味します。
しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見され
る」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっき
り晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になっ
たことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。
(注1)半月城通信<東郷・元外相は朝鮮出身?>
URLリンク(www.han.org)
(注2)中村栄孝『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1969、P456
(注3)韓国「王室図書館蔵書閣デジタルアーカイブ」の「臥遊録解題」によれば、
『臥遊録』は2種類が知られており、「欝陵島」が記載されている蔵書閣の『臥遊録』
は17世紀半ばまでの史料のみが掲載されているとのこと。
URLリンク(yoksa.aks.ac.kr)
(注4)朴世堂(1629―1703、仁祖7―粛宗29)の経歴(Yahoo! Korea辞書による)
朝鮮中期の学者、文臣。字は季肯、号は西渓。本貫は播南。1660(顕宗1)年、
増広文科に首席で及第し、成均館典籍に叙授された後、兵曹正言などを経て、
1664年に副修撰、黄海道の暗行御使になった。1667年に修撰、翌年に吏曹佐郎
になったが、就任せずに杖刑を受けた後、同年に冬至使書状官として清を往復
した。
その後、礼曹、刑曹の参議を勤め、1694(粛宗20)年の甲戌喚局以後に少論
が重用されるや、承旨に特進し、翌年、工曹判書を経て吏曹判書を勤めた。
1703年に判中樞府事として耆老所に入ったが、『思辨録』を書いて朱子学を批
判し、独自の見解を発表したため、斯文乱賊の烙印を押されて官職を剥奪され、
配流途中に玉果で死ぬ。
・ ・・・
実学派の先駆的人物として、彼の思想と学問は批判的な観点から出発したが、
自主意識が強く、自由奔放な独創性を帯びている。
(半月城通信)URLリンク(www.han.org)
(追記)(1)に下記の「 」を追加します。
その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。
「その僧が欝陵島へ行ったとする丙午年は、僧の年令から考えて 1606年と思
われます。」
また、前回の書き込みで「購読」は「講読」の間違いでした。また「韓文」
は間違いではないので、念のため。
URLリンク(messages.yahoo.co.jp)
129:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/05 20:28:22 7HLVkzq4
r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ >>126-128
l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、 半月城、ここはお前の日記帳じゃねえんだ
レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト
ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ くだらん感想文はチラシの裏にでも書いてろ
:ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ
::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ , な!
:::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::///
:::::::::::::::::::::::::::::l ヽ;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ /
::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ /
130:ハンガリータイソー
08/01/05 21:40:17 ASApvupI
2007年独島をよく見る.-5
URLリンク(www.dokdocenter.org)
韓国の独島関連でよかった事
1.慶尚北道独島居住民間人支援に関する条例制定 - 2人百万ウォン支給[1月 3日]
2.独島で携帯電話 440人同時利用可能[1月 9日]
3.政府外交通商部代弁人名義の論評 - "'独島の日' 条例を直ちに撤廃して独島に対する
不当な領有権主張を中断すること"を強力に要求[2月 24日]
4.事前通報制度拒否[3月 5日]
5.鬱陵郡議会 '独島領有権の公告化及び永続発展のための決議文'を採択.中央部処など送
付[3月 12日]
6.李宅淳•警察庁長官独島訪問[3月 14日]
7.韓日外交長官会談で宋旻淳長官
- 日本の独島領有権主張を強化する方向に進行された日本高校教科書検定結果に対し
て "独島に対するどんな領有権主張も受け入れることができない"と強く抗議.
[4月 1日]
8.国防省,日本防衛省が発刊した防衛白書に独島を自国領土で表記したのに対して強力に抗議.[7月 19日]
9.外交通商部海洋法規企画課新設[8月 29日]
10.独島本部,新韓日漁業協定と独島領有権危機を知らせる学術討論資料集の全20冊完刊
[10月 19日]
11.慶北市郡議会議長協議会月例会議で独島守護,鬱陵島発展決議文採択
[10月 29日~30日]
12.独島で最初の大統領選挙投票実施[12月 13日]
2008.01.02 独島本部 www.dokdocenter.org
131:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/05 22:31:23 znYQuzDp
時々こういうコピヘキティガイでるよな。
なんかスイッチでもあるのか?
132:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/07 19:34:58 FmDQNEzz
海洋水産動向1250号2007.11.20
責任研究員 柳美林
■「于山島は独島」 立証する朝鮮時代史料発掘
●01わが国の独島領有権問題とかかわって今まで韓日間に尖鋭に対立してきた争点の中
の一つである于山島が独島という事実を立証することができる新しい資料が発掘された。
●02最近うちの研究員が朝鮮後期安龍福事件当時生存した朴世堂の「鬱陵島」と張漢相の
「蔚陵島事蹟」を分析した結果、于山島は鬱陵島とは全然違った別個の島であることが明
らかとなった。
●03今までわが国は「世宗実録地理誌」などをもとに于山島を独島と主張してきたが、日
本は于山島に対して鬱陵島やその横にある竹嶼島を指称することだと反駁してきた。
●04しかし朴世堂は鬱陵島で天気がとてもよいとか高い所に上がると于山島が見えると
記録していて、日本が主張するように于山島が竹嶼島や観音島を指すのではないという事
実が立証された。
URLリンク(library.kmi.re.kr)
133:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/07 19:40:00 pH+oduDB
∧_∧ ∧_∧
( ・ω・) ⊂=<`Д´ ><死ね!チョッパリ!
(O つ ヽ O)
/ ) ( \
( / ̄∪ ∪ ̄\)
∧_∧
∧_∧⊂<`Д´ >
(O( ・ω・) ヽ O)
/ ) ( \
( / ̄∪ ∪ ̄\)
∧_∧
∧_∧=つ;;)Д´ >
(O( ・ω・) ヽ O)
/ ヽ ( \
( / ̄Lノ ∪ ̄\)
∧_∧ ∧_∧
( )∩;;)3´ >.・:;
Oゝ ノ、 O)
/ ) ( \
( / ̄∪ ∪ ̄\)
134:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/07 19:54:13 9/fJEFpu
海自の艦艇出して全部引きちぎってやればいいのに
あるはずのないものなんだからどうなっても構わんだろ
135:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/07 19:57:50 K5UYSpDd
対馬を救ってやってくれ、頼む。
136:ハンガリータイソー
08/01/09 00:09:22 I0x1Jhs/
●独島入島客史上初10万名突破!
規制緩和影響.... 鬱陵島 - 独島間旅客船 3隻運航
2004年私たちの領土,独島を中心に韓日間深刻な摩擦をもたらした国土最東端独島
が政府の入島規制緩和と国民の独島愛好精神によって去年独島入島客が史上
初めて 10万名を突破したことが明らかにされた.
浦項地方海洋水産庁(庁長ソンヒョンギュ)は去年独島入島客が前年(7万7150人) 比
30.8% 増加し 10万915人を記録,史上初めて 10万名を突破したと明らかにした.
8日ジョインスドットコムによれば現在鬱陵島で独島を行き交う旅客船は 3隻.船舶別で
見れば江原道東海を出港するハンギョレ号とサンフラワー号を利用した独島入島客数は前
年(5万2人) 比 58.9%増加し7万9475人と集計された.一方浦項出港のサンボン号を利
用した独島入島客数は前年(2万7148人) 比 20% 減少し2万1440人と集計されたと報道
した.
これに対して浦項海水庁は旅客便宜性のためと解釈した.浦項から出発するサンボン号は
定員 210人,23ノット 106トンなのに比べて,東海で提供される船便は複数路線(ハンギョ
レ号·サンフラワー号)に 40ノットで鬱陵から独島までの運航時間が短い.ハンギョレ号
は定員 445人,445トン,サンフラワー号は定員 423人,584トンだ.
現在文化財庁は独島が天然保護区域に指定されたという理由で独島入島人員にクォータ制
を適用,規制している.文化財庁は去年 3月1日独島入島客許容人員を一日 400人から
1880人(1回当り 470人)と規制を緩和した.
コナスネット(韓国語)2008-01-08 午前 11:35:09 入力
URLリンク(www.konas.net)
137:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/11 19:20:04 oEyzsTAh
>>1
バカチョンやクソシナの密漁船なんぞ
超低空侵入の戦闘ヘリ「コブラ」で機銃掃射しろ。
侵略国家・ロシアなんぞ
哨戒機から20ミリ機銃を日本漁船を掃射してるぞ。
138:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/13 22:09:26 0bFudXzl
■"日本記録,1622年朝鮮の人独島住んだ"
URLリンク(www.breaknews.com)(朴炳植先生)
一生研究した日本研究大公開-6 /"日本発刊 大日本地名辞書 独島=韓国の地"
朴炳植/歴史学者
独島.数年前ソウルに駐在していた日本大使が私たちの領土である独島を彼らの物だと
言い放って私たちの心を非常に乱れるようにした.
●"1622年に多くの朝鮮人が住んでいた"
そんな馬鹿にできない話をする高野紀元大使と無茶な音をおうむのように本国指示どお
り言った新任大使たちに西暦1907年に日本で発刊された 大日本地名辞書.(吉田東伍著)
を見せたい.
その辞書の第2冊,434ページには竹島(すなわち独島に対して,おおよそ下のような説
明が書かれている.竹島.慶長以後 (壬辰の乱以後を意味する),辺海の漁民たちが竹島に往
き来してその所を占有したようで,米子志に次のような記録が見える.
“1621年に村川正勝という人が海を渡って竹島に行ったところ,少しの朝鮮人がその島
にあることを見て直ちに米子に帰ってきて,その事実を官庁に報告した.
その翌年1622年に,官の許可を受けてまたその島に渡って見たら,多くの朝鮮人が住んで
いるので,2人を生け捕って帰国して実際を官に報告して竹島に往き来することを公認し
てくれるように訴えたが,官は,1623年,米子の人々が竹島に往き来することを禁止した.
そんな一方,江戸幕府は,対馬島の領主である宗氏に命じて,朝鮮政府に一番勝負するよう
にした.“
宗氏が "私たちの領土である竹島に貴国漁船が頻繁に侵犯するので,私たち漁民がなか
でも二人を取って来てそんな実情を報告して来た.しかしここに彼らを返す"と言うと,朝鮮
政府の礼曹判書は "その所は文献を見え,我が国との通り上に見え,私たち地なのが明白で
あり,貴国は見誤っている"と決然と拒否した.
このようになると江戸幕府も仕方なく朝鮮に屈服して仲直りして,竹島に行くことを禁
止したから,この時が西暦1699年だった.
明治16年,西暦1883年,韓日両国政府はまた竹島の領有権に関する一番勝負をしたが,そ
の結果,日本政府は竹島に渡った船を皆撤収させて,二度とその所に行かないように命じて,
竹島が朝鮮の領土であるのをはっきりとした.
●"日本政府が竹島の領有権が私たちにあることを確認"
以上は '大日本地名辞書'の記事を簡単に要略したことだが,これだけでも,明治時代に入
って行っても,日本政府が竹島の領有権が私たちにあることを確認したという事実が分か
らないか?
**筆者/日本古事記を一生研究して来た歴史学者.日本の大学で教授であったし,著書では "日本語の悲劇" "日本語の発見" など 20冊がある.現在は韓民族文化研究院学術顧問.
※ブレーキニュース(韓国語)2008/01/11[22:42]
URLリンク(www.breaknews.com)§ion=section4
139:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/14 14:18:26 5CdUGNPW
ヤバイよ、ヤバイよ。こんな連中にビザ免除なんて。
★強姦発生率世界1位の韓国からのビザ無し入国★7
スレリンク(soc板)l50
140:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/19 13:35:11 3Pko1qlK
テレ朝で密漁を自慢する韓国漁民、日本に壊滅的被害
URLリンク(www.tanteifile.com)
141:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん
08/01/19 14:12:45 N10i9n2f
しかし 昨日の報ステみてりゃわかるように
韓国人は枯渇するまで取り尽くすからな。
まぁ 日本の漁民は泣くしかないわな。