08/01/03 00:10:42 d93nm/Ch
>>362
それに、神道には「祓え」という概念があるからね。
西村幸祐が古田博司を引用しながら、高橋哲哉の「靖国問題」を論破してる文章がある。
「どんな死であれ、死は一種の事務的な手続きである」(「真夏の死」三島由紀夫)
のなら、なおさら生に対して平等であるべく国家の「感情の錬金術」が担保されなけ
ればならないのだ。しかも、高橋の決定的な誤謬は、靖国という装置が、遺族の哀切
を「喜び」に位相転換することを「感情の錬金術」と解釈していることだ。そこには
日本文化である神道への驚くべき無知と傲慢さしかない。神道は悲しみを「喜び」に
転換するのでなく、憎しみも、悲しみも無化することに特徴があるのだ。
繰り返すが、「靖国の論理」が「悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように
仕向ける」わけではないのである。この文脈で靖国を主語に置けば、「悲しみ」は
「抑圧」されたのでなく、深化し、昇華したのだ。さらに言えば、靖国が神社である
ことによって、魂は <祓え> の対象になったのである。「抑圧」された「悲しみ」な
ど、祓うことも不可能なのだ。祓われた魂が昇華するということは、無化することの
アナロジーなのだ。
筑波大学教授の古田博司氏が靖国の鎮魂に関して、ほぼ私と同じ見解を述べている。
「とにかく『祓う』ことが、おそらく日本人の精神で、根本に一貫してある気がする
のです。祓うことが日本人の根本の精神であり、心なんだと考えます。(略)この感
覚は日本の仏教にも実は流れ込んでいます。(略)これは宗教の無化であるとともに
宗教なのです。『無』の無化ですね」(「東アジア『反日』トライアングル」文春新
書)。そして、ここで私が指摘した高橋の記述に触れて、「これはおかしい。『祓
え』はこういうものを無化することですから、これでは無化にならない。これでは神
道の意味がない。要するに憎しみや悲しみ、そういったものを祓ってしまう。喜びだ
って祓ってしまうものですからね」(前掲書)と述べている。
さらに古田氏は「『憎しみ』から始めるのはいけませんね。『憎しみ』を祓うため
に神道があるのです。神道の存在によって、日本人の宗教観が決定されるのではない。
日本の精神史に『祓え』があって、そこから神道が結実してくる。方向性が逆なんで
すね」(同)と結論づけているのだ。
西村幸祐「反日の超克」160P・第5章「靖国問題の虚妄」より
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