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朝鮮通信使に関連した扶桑社の教科書の記述は2001年版と2005年版で大きな差はない。それでも歪曲
した事実が改善したのではない。正確に言えば、歪曲されたというよりは必要な記述を抜け落ちさせ
ているというのが正しい。
上で記述された朝鮮通信使や倭館は、徳川幕府が日本国内での地位を強固にして経済的な問題を解決
すると同時に、先進文明を収容するために対馬島島主を通じて絶えることなしに要請した結果、成り
立ったのだった。
それにもかかわらず、そういう朝鮮との国交再開に関する背景説明は全く記述されなかった。先に朝
鮮通信使の場合、派遣目的と招聘理由に関する説明が抜け落ちている。扶桑社の教科書だけではなく
他の出版社の教科書でも大部分、朝鮮通信使によって朝鮮の先進学問と技術の伝授を受けたという内
容は捜してみることができない。主に両国の間の交流を強調しているだけだ。
また朝鮮通信使は厳然と徳川幕府で将軍が変わる度に、その権威を認められるための日本の要請によ
って派遣されたにもかかわらず、そういう説明には言及していない。単純に定期的に来る祝賀使節だ
ったと記録している。おもしろいのは、むしろこのような事実を隠蔽しようとするように「対等な関
係を結んで」という部分の記述が含まれている点だ。
古代から19世紀後半まで教科書の記述を通じて日本が韓国より先進国だった、ということを出そうと
する日本がこの部分では敢えて‘対等な’という表現を使っている理由を知りたい。朝鮮通信使は、
1607年から1811年まで合計12回にわたって派遣され、その規模も400人余り内外だった。朝鮮通信使の
行列を描いた絵を見たことがあったらその規模に驚くはずであり、彼らがいただいたもてなしも国賓
に近かったと見当をつけることができるだろう。
倭館と関わる記述ではその設置過程であった日本の努力や朝鮮の悩みなどに関する内容がなく、何の
困難もなしに設置されたように見える。しかし、常識的でも7年間の戦争を経験した朝鮮が、わずか20
余年後にまた倭館の設置を許容するのに、何らの葛藤も難しさがなかったのか?たぶん、倭館設置2年
前に使命団を派遣して壬辰の乱(文禄の役)の時の捕虜7,000余人を連れて来たことを見れば、罪のな
い捕虜を帰すために倭館の設置を始まりに国交再開を承諾したと見られる。
(後略=朝鮮通信使の説明)
パク・スンリョル LC教育代表
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ソース:朝鮮日報(韓国語)事実を抜け落ちさせる日本教科書
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★1の立った時間:2007/12/08(土) 23:18:10