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【竹島】 「于山島はやはり独島だった」~朝鮮後期に書かれた資料発掘、日本の主張覆す[12/04] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★
07/12/05 00:06:02

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▲西溪朴世堂の「鬱陵島」原本。

独島(竹島)領有権で大きな争点だった「于山島が独島」という事実を立証できる新しい資料が発掘
された。

韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員である柳美林(ユ・ミリム)博士は最近、同開発院
が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期、朴世堂(パク・セダン、1629~1703)が使った「鬱
陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかになった」と述べた。
「独島は元々我が地」だったとする時、その重要な根拠は于山島の存在だった。

「世宗実録」地理志には「于山と武陵(于陵)の二島は(蔚珍)県の真東の海上にあるが、二島間の
距離は遠くなく、晴れた日には両方からお互いの島を見ることができる。」と記録している。ここで
「武陵」が鬱陵島、「于山」は独島というのが韓国学者たちの解釈だった。しかし、日本学者たちは
「新増東国輿地勝覧(しんぞうとうごくよちしょうらん)」の注釈に「于山島と鬱陵島は本来一島だ
ったという説もある」と言う内容を根拠に于山島は独島ではなく①鬱陵島か②鬱陵島から東方へ2キロ
メートル余り離れた竹嶋を言う、と主張して来た。

ところが、ユ博士らが朝鮮後期の主要学者の一人である西渓朴世堂の記録「鬱陵島」を分析した結果
は違った。この文は朴世堂の11代子孫が2001年、韓国学中央研究員に寄託した「西溪宗宅古文書」の
「西溪雑録」に載せられている筆写本で、今まで史料の存在が一般に知られていなかった。朴世堂は
この文で船に乗って鬱陵島へ行って帰って来た僧侶から伝え聞いた話を記録しながら次のように言及
した。

「総じて二つの島(鬱陵島と于山島)はあまり遠くなくて、一度大きな風が吹けば着くことができる程
度だ。于山島は地勢が低くて、天候が非常に晴朗でないとか最高の頂上に上がらなければ(鬱陵島は)
見えない(不因海気極清朗、不登最高頂、則不可見)。

この記録は①‘于山島’は確かに鬱陵島のような島ではないという事実と、②竹島や観音島のように
鬱陵島と接した島でもない、という事実を立証している。竹刀・観音島は鬱陵島で高く上がらないと
か天気が曇っても肉眼で見られる島だからだ。それなら‘于山島’になることができる島は独島しか
にない。

これは朴世堂と同時代人である三陟営将、張漢相(チャン・ハンザン、1656~1724)が書いた‘鬱陵
島史跡’で「(聖人峯(ソンインボン)から)東に海を眺めたら東南の方に島一つがかすかにあり、
大きさは鬱陵島の3分の1にもならなくて距離は300余里に過ぎない」と言う記録とも通じる、とユ博士
は説明した。

朴世堂と張漢相は二人とも日本側から独島が朝鮮の地という確認を受けた肅宗の時の漁夫、安竜福と
同時代人という点で、彼らの認識はより重要な意味を持つというのだ。これに対してシン・ヨンハ梨
花女大碩座教授は「初めて発掘されたもので、独島が私たちの地だったことを明らかにする非常に立
派な資料」と述べた。

ソース:朝鮮日報(韓国語)
‘于山島’はやはり独島だった、海洋水産開発院ユミリム博士、朝鮮後期朴世堂が書いた資料発掘
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