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吉本興業Wiki
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暴力団との黒い関係
醜聞も少なくない。戦前の初代社長吉本せいの頃より山口組と組んで嫌がる
売れっ子芸人を契約させたり、地上げや興行を行ってきた。新興演芸発足に
伴う引き抜き事件の際には、かなりの極道が動いたという。山口登(山口組
二代目組長)は、初代社長・吉本せいの依頼を受け、吉本興業の東京進出に
尽力した。1940年、山口登は人気浪曲師・広沢虎造(映画興行権を吉本興業
が所有)の興行トラブルから、下関の籠寅組・保良浅之助と対立。山口登は、
東京浅草で籠寅組幹部と話し合いを持ったが、籠寅組に襲われて重傷を負っ
た。余談ながら、山口登は、この籠寅組に東京浅草で襲われた時に受けた傷
がもとで、2年後死亡した。
戦後も吉本興業は力道山などのプロレス興行を手掛け、田岡一雄(山口組三
代目組長)や町井久之(東声会会長)と親交があった。田岡一雄は美空ひば
り等の興行を仕切っていた事で知られる神戸芸能社を率いており、同じ関西
の吉本興業との関係は当然すぎて、当時は誰も問題視しなかったのであろう。
1968年1月11日には、吉本興業社長・林正之助が田岡と組んでレコード会社を
乗っ取った容疑で兵庫県警に逮捕されている。当時の日本経済新聞によると
「わしが田岡組長に電話したら山口組組員300名が駆けつけて血の雨が降るぞ!
」と脅迫したという。毎日新聞によると「食品会社、レコード会社から千二百
万円相当の株を脅し取った」と書かれている。週刊文春によると「林正之助は
山口組の準構成員であった」(企業舎弟)と書かれており、林正之助は田岡の
葬儀にも出席し棺を担いでいる。