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買う気にもなれず、大型書籍店のサブカルチャー・コーナーに積まれた
ケータイ小説のベストセラー『恋空』を立ち読みした。当然かもしれないが、
すべて横書きである。ひとつの文章が極端に短いうえ、センテンスごとに改行している。
「!!」や「?」「♪」「…」「↑」といった記号も多用されている。
最大の特徴は比比喩(ひゆ)がほとんどないことである。修辞学的に言えば、
比喩には直喩や隠喩、換喩、提喩などさまざまなものがあるが、つきつめれば
「コトバのあや」のことである。小説や物語は「コトバのあや」によって、読み物たりうる。
「綾」とも「文」とも書かれる「あや」は、人の心の微妙なヒダのことであり、
文章に波紋のような複雑なうねりをもたらす。そういう「あや」がない文章は
文体がない文章であり、たんなる作文でしかない。
だが現代の若者たちにとって、日常の会話でもメールでも、「あや」を使うことは
タブー(禁忌)なのである。「あや」などを使ったら、それを理解できない仲間や
恋人から誤解され、やがてパージ(いじめ)に遭い、疎外されてしまう。
彼らは直接的、かつ単純明快なコトバによってしかコミュニケーションを
はかれないのである。コトバは記号、あるいは符丁でありさえすれば良かった。
その背景には、彼らの茫漠(ぼうばく)とした、深い危機感があるように思える。
たんに交友関係における危機感だけでなく、時代そのものに対する危機感も含まれている。
しかし、彼らもだれかに自分の気持ちを理解してもらいたい。「コトバのあや」が
まったくないケータイ小説は、こうして生まれた。ケータイ小説の奥付を見ても、
作者のプロフィルは書かれていない。『恋空』の作者の「美嘉」もどんな女性かは
分からない。「美嘉」は現代の若者を表象していさえすればよく、再びバルトの
刺激的な用語を借用すれば、「作者は死んだ」のである。
筆者などは、『乳と卵』の集団的特異語法を使う集団からはカラダ半分を残して、
ケータイ小説の集団的特異語法を使う集団からは完全に脱落している。
これは日本語の危機ではないだろうか。日本語の危機は日本の危機にほかならない。
(ふくしま としお)
産経新聞
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