08/06/06 12:50:27 aurdubdK
>>642
URLリンク(namekohouse.run.buttobi.net)
今でもここには金子 姓が多く、地主は皆渡来人の子孫だという。それに昭和に
入って宅地開発される前は、周辺に古墳も多く残っていたそうだ。ちなみに
現在私が住んでいる練馬の豊玉周辺には 白井(しらい)姓がやたらと多い。
そもそも地名に 馬と付いている練馬は、日本に馬を持ち込んだ朝鮮渡来人と
かかわっていることは多いに考えられる。今、丁度渡った黒目川の新座側、
練馬との境には馬場 という地名が残っている。天宝七年(1836)に出版された
『江戸名所図会』では、この黒目川を 黒馬川 と呼んでいる。さらに、現在の
和光市白子あたりから黒目川をはさんで、柳瀬川まで続く起伏のある武蔵野段丘
は、古来立野(たての)の駒と呼ばれた名馬の産地として有名で、天暦五年(951)の
『後撰集』を始めとする多くの勅撰和歌集にも詠まれた牧野だったことが述べら
れている。この立野という地名は、現在では東久留米市を流れる黒目川の支流、
立野川にのみその名を残しているが、藪のような草原が広がり、不毛の地と思わ
れていたかつての武蔵野を、渡来人達が逆に馬の放牧の適地として利用したこと
は想像に難くない。恐らく我が家の近所、練馬に多い白井さん達は、立野で馬の
放牧を生業としていた新羅系渡来人の子孫達なのだろう。