07/03/08 08:46:28
そのラーメン店にはきょうも長い行列ができる。東池袋「大勝軒」。
つけ麺(めん)の元祖として知られ、多くの人に愛されたが、
二十日で四十五年の歴史に幕を下ろす。「お客さんへの感謝の気持ち」。
それが店長の山岸一雄さん(72)が大事にしてきたことだ。
平日の午後二時。店の周囲にとぐろを巻くように連なる人、人、人の波。
ふだんから行列が絶えないが、閉店を知った客が押し寄せ、さらに行列は長くなっている。
山岸さんは長野から上京。旋盤工をしていたが、十七歳でいとこに誘われ
ラーメン店で修業を始めた。その後、いとこが開いた東京・中野のラーメン店「大勝軒」へ。
そのころ、ざるに残った麺をスープにつけて店の奥で食べていた。
それを見た常連客が「食べさせてくれないか」。何人かに出してみると反応は上々。
つけ麺の「特製もりそば」の誕生だった。
山岸さんはその後、独立。東池袋で「大勝軒」を開いた。
一九六一(昭和三十六)年六月のことだった。首都高やサンシャイン60はおろか
商店街すらない最悪の立地条件。雨が降ると坂道から店の中に泥水が入り込み、
足を上げて客が麺をかき込む光景も見られた。それでも客足が途絶えなかったのは、
「一期一会」の信念で、お客さんとの触れ合いを大切にしたからだという。
味の研究も怠らなかった。行列店となっても試行錯誤しながら、
自分の理想とする味を追求した。慢心を一番嫌った。
そして編み出したスープのレシピは惜しむことなく公開している。
妻二三子(ふみこ)さんに支えられた。二三子さんは体が丈夫ではなく
「疲れる」と口にしながらも二人三脚で店を切り盛りしてきた。
山岸さんが両足に違和感を覚えたのは二十代後半。四十歳のころには
立っていられないほどの激痛に変わった。医師の診断は「静脈瘤(りゅう)」。
長い間、厨房(ちゅうぼう)に立っていたことが原因だった。手術で静脈瘤は切除したが、
再発の恐れは消えなかった。追い打ちをかけるように、二三子さんが胃がんで亡くなった。
五十二歳の若さだった。
ぼうぜんとして半年間休業。閉店。その間「しばらく休養します」と書いた店の張り紙に
「早く元気になって」「またおいしいラーメンを」といったメッセージがびっしり。
「もう一度やってみよう」と発奮。店を再開した。
(>>2以降に続く)
東京新聞TOKYO発3月7日
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