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★貧困をイデオロギー問題として捉えた日本の不幸
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人には、見たくないものは見えない。見ようと努力しなければ、見えてこない。
「ワーキングプア」や「ネットカフェ難民」が流行語になったために、日給、時給で得た数千円を
握り締め、日々綱渡りのようにネットカフェで暮らす若者、中高年の存在が知られるようにはなった。(中略)
では、彼らは、労働人口の3分の1を占める非正規社員1670万人のうち、いったい何人いるのだろうか。
なぜ、“まともな職業”に就けなかったのか。低学歴ゆえなのか。(中略)
要は、本人の努力不足という自己責任に帰す問題なのだろうか。それとも、ポスト工業化社会、
グローバリゼーションによる産業社会の変化がもたらした構造問題なのか。実態は、ほとんど何も
分かっていない。
最大の原因は、日本政府が1966年に貧困層の調査を打ち切り、再開していないことにある。
議論の土台となるデータがないのだ。
政府、というより私たち日本人全員が、戦後の困窮期を抜け、高度経済成長を経て、豊かな社会
実現した自負からか、もはや貧困はないものとしたのである。(中略)
だが、それは見たくないものを見ないようにしただけのことだった。(中略)
実は、先進諸国、OECD諸国は、実現した豊かな社会、福祉国家に存在する貧困層を執拗に“発見”し、
救済してきた。彼らを、あってはならない状況に置かれていると認識し、その存在に目をつぶらずに
来た。彼我の差は、社会運動としての歴史あるいは社会運動を支える層の厚みの違いといえるだろう。(中略)
貧困は右も左もイデオロギーを超えて解決すべき問題だという認識が、国際常識なのである。
それが、日本にはない。近年の歴代首相が貧困撲滅を公式非公式の場で発言したなど、聞いたことが
ない。