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・「自決命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人尋問が始まった沖縄の集団自決
訴訟。住民に集団自決を命じたと記述された座間味島の元守備隊長、梅沢裕さん(90)は
毅然とした態度で“無実”を訴えた。確証がないのに汚名を着せられ続けた戦後60余年。
高齢を押して証言台に立ったのは、自分のためだけではない。無念のまま亡くなったもう
1人の元守備隊長と旧日本軍、そして国の名誉を守りたい一心だった。
終始しっかりとした口調で尋問に答え、焦点となった集団自決前の状況について問われると
「(村民に対し)弾はやれない、死んではいけないと言いました」と語気を強めた。
梅沢さんにとって決して忘れることのできない出来事をめぐる証言だった。米軍が座間味島に
上陸する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た場面は強烈な印象として
残っている」という。
大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を
開いていた夜、村の助役ら5人が訪ねてきた。
《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといに
ならないように老幼婦女子は自決します》
助役らは切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴弾などの提供を求めた。
驚いた梅沢さんは即座に断り、こう言葉を返したという。
《自決することはない。われわれは戦うが、村民はとにかく生き延びてくれ》
戦後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、週刊誌に「梅沢少佐が島民に自決命令を
出した」と報じられた。そして、戦後まもなく発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で
隊長命令説が記述され、沖縄の文献などに引用されていることを知った。
「お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。
屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」
転機が訪れたのは57年。戦没者慰霊のため座間味島を訪れた際、米軍上陸直前に
会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。(>>2-10につづく)