07/09/30 21:51:14 9ll2B6n70
私はこの国が死刑制度の運用に頼るレベルから脱却するレベルに達し始めたと考えている。
民主主義国家における死刑とは国民全員がその人間を殺す事と同じ。
それを私は食い止めたい。人を殺すという事は死刑がある以上自然なことになっているが、
そこから脱却したいと考えて事前に犯罪を抑止することに思考と行動の時間を割くべきだと言いたい。
人が犯罪を犯す因果は厳密なもので、簡単にレッテル貼りをしてその人間をどうにかしろという
考えは間違っている。
そこの仕組みを話すと長くなるのでまたまとめると、
人間の精神の成長には厳密な仕組みがなりたっている。犯罪を犯すのに理由は無いとか自然な事という話は
ある意味正解であってある意味不正確。公に発表出来るようそこは今頑張っている。
で、皆が出来る犯罪の抑止とは
・人の苦しみに因果があるものと捉える事。すぐその人が原因だと結論付けるのを避け、
情報に対して中立の立場を守って欲しい。誰が犯人だと明らかになっても、その時点今苦しんでいるのは
被害者である事だとか、子供への影響とか、社会の中で犯罪が起こる事は必然である事を踏まえた思考をして欲しい。
・子どもの精神発達を守って欲しい。それは危険な情報を遠ざけるとかそういう原因を一つの固体にするのは間違い。
今の社会運営をする世代が子どもにどのような精神性を教えているか、そこから身近な子供に対する
慈愛の態度を持って接して欲しい。いかに親が自分の子どもだから何をしてもいいとしたとしても、
子どもは地獄の中に居る。そういう子どもは将来犯罪を犯しやすく(語弊がある事を考慮して欲しい)また
犯罪を犯す事を防ごうとしてもそれを他者に理解してもらう能力も欠ける場合が殆ど。
・犯罪を犯す人間も犯罪を犯すのを防ぎたいと思っている事を認識すること。
全員が喜んでしていると思うのは間違い。一言でも何らかの会話があれば
防がれる事件は相当ある。幼女に関する残虐事件は犯人の幼少時からの孤独が
人間関係の構築を難しくし、成人になった後にその当時の関係構築不全の影響が
間接的に現れて犯行に至る場合が非常に多い。
もしもその未然に一言でも誰かが個人としての尊重する会話があったなら、
防がれた事件は多々あるだろう。もし社会性として つづく