07/08/06 20:59:21 0
(>>1のつづき)
国内では麻生外相らが核保有の議論をすべきだと説く。そこへ、久間発言である。核兵器への抵抗感が
政治家の間で薄れているのではないか。そんな不安にかられたのは被爆者だけではない。
だが、果たして日本国民は、久間氏の発言を一方的に非難できるのだろうか。
日本はかつてアジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた。しかも、無数の人命を犠牲にして
負け戦をずるずると引き延ばした。その揚げ句に落とされた原爆なのだ。
一方、戦後の日本はといえば、圧倒的な軍事力を持つ米国と安保条約を結び、「核の傘」に頼ってきた。
それでいて、「非核」を訴えるという居心地の悪さもある。
そうした事実を直視し、考えるきっかけにしなければいけないのではないか。
問題は、だからしょうがないではなく、世界に同じ悲劇が起きないように、日本が何を訴えていくかだ。
過去の歴史を反省し、アジアの国々と手を携える必要があるのはいうまでもない。
久間発言を支持したのは、多くの米国民だったかもしれない。
「原爆投下で戦争が終わり、100万の米兵が救われた」というような正当化論が依然根強いからだ。
だが、その米国にも変化の兆しがないわけではない。
この夏、日系米国人のスティーブン・オカザキ監督の映画「ヒロシマナガサキ」が日本で公開されている。
この映画が画期的なのは、米国で4000万世帯が加入するケーブルテレビが、制作資金を出したことだ。
そのケーブルテレビで6日から全米に放映される。
オカザキ監督は「9・11のテロ以降、米国人は核兵器が使われるのではないかということに現実味を
感じている。今ほど被爆者の体験が重要な意味を持つ時代はない」と語る。
広島では14万人が犠牲になり、長崎の死者は7万人に及んだ。生き残った人や後から被爆地に
入った人も放射能の後遺症に苦しんだ。その恐怖を米国も共有する時代になったのだ。
久間発言によって鮮明になったことがある。日本の国民には、核を拒否する気持ちが今も強く
生きているということだ。それを世界に示したことは、思わぬ効用だったかもしれない。
この怒りを大切にすること。それは日本の使命である。(以上、一部略)