07/07/10 08:42:43 0
>>1の続き
このように一方で国民の意識形成を図り、他方で実力行使を積み重ねつつ強大な軍隊はつく
られるが、その軍隊が有事の際に自国民=地域住民を守らない存在であることは、沖縄戦で
日本軍が具体的に示したところであった。壕からの追い出しや食糧強奪にはじまって、究極の
形は「住民虐殺」としてあらわれたが、そのような軍隊の赤裸々な姿は、『沖縄県史』をはじめ
沖縄の各市町村史の戦争編に数多くの証言によって記録されており、その典型的な事例は
久米島における「虐殺」であった。
45年8月15日の敗戦後も続けられた残忍な虐殺は言語に絶するものであるが、虐殺した
日本軍の隊長以下全員はのちに米軍に投降して本土に引き揚げるという身勝手さである。
しかし、このような「住民虐殺」は、大本営が準備していた「本土決戦」がなされていたとすれば
南九州と関東を中心に全国で発生したにちがいないのである。なぜなら軍隊は、国家を守る
組繊であって個々の国民を守る任務は負っていないからである。そして軍隊としての自衛隊も
その埒外(らちがい)にあるわけではない。
この国の首相は、「戦後レジーム(体制)からの脱却」による「美しい国」づくりを公言してはば
からないが、その先に出現するであろう国が「恐ろしい国」であることは、いま沖縄で起きて
いる諸々の事象から透視されるのである。
「戦争がどのようにやって来るのか、実に何でもない状態が進んでいって、ある日にば戦争が
始まっている。たぶんね。足音もしないのね」(澤地久枝『世界』七月号、佐高信との対談)。
その通りだと思う。そしてかつて島尾敏雄が「日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球弧の
方が騒がしくなると言いますか、琉球弧の方からあるサインが太土の方に送られてくるのです」
(『ヤポネシアと琉球弧』)と書いていたことを思い出すのである。 いまなお沖縄戦の記憶が
生き、波が騒ぐ沖縄が発しているシグナルを感知して、音もなく忍び寄る「足音」を聴き取る
「想像力」を本土の日本人は試されていると言えるように思う。(新川明=元沖縄タイムス社長)
以上。