07/06/23 11:15:32 0
・「弟が目の前で死んでも悲しんでいる余裕さえもなかった。父も沖縄戦で死んだ。歴史を風化
させないために正しく語り継いでいかなければならない」。22日の県議会意見書可決を前に、
仲里利信議長(70)が自身の沖縄戦体験について告白し、全会一致への決意を新たにした。
仲里議長は19日の県議会文教厚生委員会でも戦争の現実を訴えた。
1945年2月の夜、通信隊に入っていた父・利吉さんが、ふいに現れた。「今度の戦は負け戦に
間違いない。ここにいると駄目だから、すぐにやんばるに行け」。父が手配していた友軍(日本軍)の
車で家族9人、宜野座へ避難した。
海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマ
だった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が
流れていた。
その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。3人の日本兵が来て、「この子たちが
泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入ったおむすびを持ってきた。
すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。
壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。
後は別れた家族を捜して、何も口にせずに何日も山を歩いた。母の母乳も出なくなり、弟が弱って
いった。金武で残りの家族と再会できたが食糧はなく、弟は満1歳で衰弱死した。「(1年前の)
生まれた日の生まれた時間だ」と母が言った。死体は金武に埋めて、戦後掘りに行ったが、捜しきれなかった。
自身の体験と重ね合わせながら仲里議長は「歴史を風化させたら、また戦争への道を歩んでしまう」と
危機感を募らせる。「平和を願う気持ちは全県民一緒だよ。この問題は保守革新も関係ない。県議会も
全会一致でまとめることに重みがある」。仲里議長の静かな口調に強い決意がにじんだ。(一部略)
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