07/06/17 16:20:34 wZSX1V6p0
>>967
日本の終戦直後、私は東京都の渉外部長で、占領軍司令部の命令に、“サービス”を提供する役割を課された。
戦勝者の命令は絶対である。僅か一、二週間の間に占領軍の兵隊のためにワシントン・ハイツ等という名の
宿舎の建設が命令され、将校たちのためには、洋式のトイレの住宅を接収し、提供した。
敗戦の年のクリスマス、司令部の将校から呼ばれて“ヨシワラ”の状態の報告を命ぜられた。
もちろん、その地区は焦土と化していた。命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、“女性”を集めろということだった。
命令は英語で“レクリエーション・センター”の設置である。最初は室内運動場の整備だと思ったが、そうではない。
旧“ヨシワラ”のそれであった。
敗戦直後の東京の行政は、女・子供はできるだけ地方に分散するようにという命令が出され、
占領軍の兵隊のための宿舎をつくる労力さえも不足の状態だった。しかも外国の兵隊は、鬼畜とさえ教えたのを、
改めてそのようなサービスを提供するなどできるものではなかった。
しかし、市民の中には、食べ物も少なく、中にはチョコレート一個で身体を売るような話まで広がっている。
やむを得ず焼け残った“地区”の人々に、文字通り、食料を支給すると約束してバラック建ての
“サービス・センター”に来てもらった。その理由として、日本の“一般の女性の操”を守るためにといって頭を下げた。
こんな犠牲を強いた私自身が“人権”などという言葉を口になど出せるものではないと反省している。
磯村英一