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自衛隊を一佐で定年退官して郷里の博物館長に引退していた松平を(靖国
神社の宮司に)強く推したのは、最高裁長官を退官したあと「英霊にこたえる会」
の会長、明治神宮総代をつとめいたて石田和外だった。
石田は同じ福井県出身なので、かねてから旧藩主の松平とは親交があり、平泉
思想(平泉澄→皇国史観)に共鳴し合う間柄にあった。だが口添えした高松宮は、
「うってつけだが、ただではすまないよ」と洩らしたともいう。その心配は的中する。
意気込んで七月に就任した自称「無免許宮司」の松平は、五十三年十月の
例大祭に際し、宮司預かりになっていたA級(戦犯)合祀をやろうと決意した。
問題は、事前に天皇および宮内庁と、A級遺族の了解をとりつけられるかどうか
だった。 反対ないし辞退が出たらどうするか。さすがの松平も迷ったにちがい
ない。(略)
(松平からの上奏簿を)受け取った方の徳川侍従次長は回想録で次のように回想
した。
『合祀者名簿は、いつも十月に神社が出して来たものを陛下のお手元に上げること
になっていたのですが、昭和五十三年は遅れて十一月に出して来た。「A級戦犯
十四人を合祀した」と言う。私は「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句
を言ったが、先方は 「遺族にしか知らせない」 「外には公にしませんから」と言って
いた。やはり何かやましいところがあったのでしょう。そうしたら翌年四月に新聞に
大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね』
この記述には徳川の記憶違いかと思われる部分がある。「遅れて十一月に出して
来た」のくだりは、十月十七日に予定されていた例大祭への勅使参拝に間に合わな
かったかに読めるが、十月七日に池田権宮司が宮内庁侍従職と掌典職へ合祀者
名簿を届けていることが靖国神社の社務日誌で確認されている。
それにしても、松平宮司がA級合祀という重要事について、事前に昭和天皇の
「内意」を確かめず、また徳川から文句を言われると、木で鼻をくくったような返事
をしたのは事実のようだ。