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1947年、2.1ゼネスト中止命令をきっかけにGHQの占領政策は大きな転換を迎えました。
アメリカは日本を反共の防波堤として位置づけ、戦犯の公職追放を解除し始めた一方、
逆に左翼勢力に対してパージを始めたのです。
そんななか、ヤクザの実力に着目し彼らを反共の武装組織として再編したのが児玉誉
志夫です。
児玉誉志夫は後にロッキード事件で逮捕されて一躍有名人となりました。彼は戦前大
陸で児玉機関を率いており
巨額の財をなしたと噂されている大物右翼です。
A級戦犯容疑者だった児玉誉志夫は1948年末CIAと取引の末釈放され、
反共活動のためヤクザとGHQ・政治家のフィクサーとしての活動を開始しました。
その後の戦後政治はこの児玉誉志夫を中心に動いて行くことになります。
児玉は1950年の自由党結成や1955年の保守合同と自民党の誕生を資金面で支援してい
たとも言われています。
50年代を通じて高揚した左翼運動が頂点を迎えるのが60年の安保闘争です。
デモ隊が国会構内に乱入するなどの大きな混乱が生じ、自衛隊の治安出動まで検討さ
れたと言われます。
そこで当時の首相岸信介は最悪の事態に備え児玉にヤクザへの仲介を依頼。鶴政会
(現・稲川会)の稲川角二、
住吉一家(現・住吉会)の磧上義光らは岸の要請に応じて有事の際は組員の動員を決定
しました。
なお、この際山口組の田岡一雄は動員に応じず静観していたことは注目に値します。
現在、岸信介の率いていた岸派は福田派・三塚派を経て森派に受け継がれています。
つまり自民党、とりわけ森派は歴史的に稲川会・住吉会に恩があるわけです。