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電車の中で若い女性が化粧を始める。顔をしかめるオジサンがいる。マナー違反だと
視線を送る。女性は気にもかけない。気合でアイラインを引き、丹念に睫毛(まつげ)に
マスカラを塗っていく。その集中力に、オジサンは敗北感をかみしめる。
▼通勤電車での化粧は見慣れた光景になった。不快とまではいかないが、居心地の悪さ
を感じる男性は少なくあるまい。身体を美しく整える目的は同じなのに、たとえばハンド
クリームを手早く塗り込む女性の姿は、むしろ好印象となる。その違いは何かと思案して
いたら、ある道具の有無に気づいた。手鏡である。
▼川端康成に『水月』という短編がある。結核に伏す夫に「京子」は嫁入り道具の手鏡を
渡す。夫は亡くなるまで枕元から放さず、映るものを眺めて日々を過ごす。庭の菜園。
そこで働く妻の姿。遠い雪山に昇る朝日。そして月……。再婚した京子は、鏡の中に
あり続けるもう一つの次元、神の世界の遠望に気づく。
▼電車内の手鏡もまた、異空間につながる回廊に違いない。のぞき込む女性自身は、
もうそこには存在しない。どこか別の奇麗な場所に逃げ出している。猥雑(わいざつ)な
仕事社会に置いてきぼりを食ったオジサンは本当は寂しいのではないか。車内の化粧
は是か非か。すれ違うマナー論議を乗せ、今日も通勤電車はひた走る。
日経『春秋』:URLリンク(www.nikkei.co.jp)