07/03/09 17:27:02 AzfMH6Ew0
昭和十二年十二月十五日、南京にて
ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。
出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、
若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。
(中略)
つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、
とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。
支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。
つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。
中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、
既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。
山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、
ずつと向ふまで、つづいてゐました。
僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、
僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。
すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、
一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。
壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、
きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました。
(「国文学」2000年11月号 花田俊典「新資料 火野葦平の手紙」より)