07/01/18 20:47:00 I9k5bzEC0
有名な殺人コンテストに参加した二人の少尉、ノダタケシとムカイトシアキの裁判に
持ち込まれました。
裁判中、両兵士はもちろん150人以上の人々を殺害したことを否定し、一人は記事が
外国通信員の想像上のものだと非難し、もう一人は日本へ帰国したときに妻をさらに
魅惑しようとコンテスト話をでっち上げたと主張しました。
しかし評決が1947年12月18日に法廷で下されこの両少尉は銃殺隊の手で処刑されました。
南京戦犯裁判で一番、注目を浴びたのはタニヒサオでした。
1937年当時、タニは特に中華門一帯を含める多くの虐殺を犯した日本陸軍第6番師団の
陸軍中将でした。
1946年8月、タニは裁判のために中国へ戻され、南京の留置場へ護送車で運ばれました。
彼の裁判の基礎準備のために、白いオーバーオールを着た法廷の専門家たちが前もっ
て中華門付近で5箇所の埋葬地を掘り起こし、何千に上る骸骨や頭蓋骨を明るみに出し
ました。
その大半が銃撃で砕かれており、まだ黒い血痕がこびりついているものでした。
タニヒサオにとり、街全体にある凝縮した怨念に直面することは、恐ろしかったに違いあ
りません。彼が被告席に立ったときには既に黄色い日本軍服には星や縞模様が取り除かれ
ており、80人以上の目撃者が延々と話す恐怖の連祷を聞くためだけに法廷にいました。
起訴裁判はタニの師団に犯された刺殺、焼殺、溺死殺、絞殺、強姦、窃盗、破壊に関する
何百に上る事件を聴聞する長いものになりました。
非難する証言が始まると、中国人検察官たちによって法廷の机の上に頭蓋骨の山が展示され、
さらに劇的効果を高めるために専門家たちが呼び寄せられました。
タニに対する評決が発表される1947年2月6日、法廷は出席を希望する人々全員を収容する許
容範囲がなくなるぐらい混雑しました。
2000人以上の見物人が法廷の中にぎっしり入り、外では拡声器が集まっている何十万人に上
る居住民に裁判の進行を放送しました。
有罪判決が下されて驚くものは誰もいませんでした。