07/01/07 16:29:06 VyqRK+Bm0
この一件で、藤沼氏の心は最終的に決まったという。持ちだした費用はすでに3億円を超えていた。中堅企業には痛手である。しかし、「も
ういい」と氏は考えた。そして機械類の撤収の準備を始めると中国側が待ったをかけ、通訳も言った。
「この機械は置いていってやれ」
中国側は機械の代金を支払うわけでもない。藤沼氏は断った。すると、当局が機械の「輸出許可を出さない」と言い始めた。
「わが社が中国側に貸与する契約で持ち込んだのに、日本に持ち帰ろうとすると、彼らは許さないと言い始めた。大切な機械や技術、金型
をみすみす盗まれてなるものですか。私は社員と一緒に、主要な部品や金型の全てを破壊しました」
藤沼氏は中国人労働者のなかの優秀な人材を6名ほど日本に呼び、勉強させ、技術を伝授した。中国に戻った彼らは、しかし、全員が他企業
に高い給与を求めて移っていった。
中国から最終的な引き揚げが完了したのは2000年のことだ。足かけ5年、氏が体験した中国の本質は、今も変わっていない。