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■伊藤博文が死ぬと、高宗が歎息した?
1909年10月26日は、安重根義士が伊藤博文に銃弾を放った日だ。突然の伊藤博文の死。
当時、宮廷ではどんな反応を見せただろうか。
昌徳宮で15年間純宗皇帝の側近だった権藤四郎介の言葉によれば、「悲嘆にくれていた」
という。
これは、彼が直接仕えた純宗の言葉に端的に現われている。純宗は「伊藤公爵がいたから
韓国は存続できた。公爵を失った今、国運は既についえた」と言って嘆いた。
また高宗(訳注:純宗皇帝の父。ハーグ密使事件で1907年に退位)は思いがけぬ悲報に驚
き、伊藤のいない朝鮮の未来を心配した。以後行われた一連の措置はいずれも、伊藤博文
称えるためのものだった。日本天皇に自分の不徳を謝罪したり、王族だけに与える「文忠公」
という諡号を下賜したりしたのが、その例だ。
また、伊藤博文と親交が厚かった中枢院の金允植(キム・ユンシク)議長や、宮内大臣の閔丙ソク
(ミン・ビョンソク。「ソク」は夾の「人」を「百」に)子爵に多額の香典を持たせて東京に派遣し、礼を
尽くした事実も、同じ文脈で理解することができる。
この話は、『大韓帝国皇室秘史』(イマーゴ、2007年)に載っている内容だ。この本は、1907
年から1920年まで昌徳宮で勤務した権藤四郎介の回顧録(訳注:邦題は『李王宮秘史』。
大正15年刊)を中心に、大韓帝国皇室の「秘史」を編んだ。
しかし問題は、回顧録の著者が日本人だという点だ。これは、日本人官吏の偏向した視覚
がそのまま持っている可能性があることを意味する。
このため同書では、「歴史を正しく見る」というコーナーと、詳細な注や解説を追加した。歴史
歪曲を阻止するためだ。
上記の事件の場合、「歴史を正しく見る」に黄ヒョンの『梅泉野録』の内容を付け加えた。す
べての朝鮮人が伊藤博文の死を哀悼したのではないということを示すためだ。『梅泉野録』
に描かれた当時の一般的な姿は、「このニュース(安重根義士の義挙)がソウルに伝えられ
ると、人々は敢えて声を出して痛快がることは出来なかったが、誰もが噂しあい、それぞれ
家の奥で酒を酌み交わして祝った。」というものだった。
このように同書は、権藤四郎介の記録が必ずしも正しいとはしない。権藤の言葉が捏造さ
れた事実である余地を残している。同書は単なる回顧録ではなく、読者が均衡ある視覚を
維持するのを助けている。
日帝時代の宮廷の「秘話」を知りたい読者なら、一度読んでみるに値する本だ。しかし一つ
知っておくべき点がある。国史で一番悲痛な時期の「秘話」だ、という点だ。本に滲んでいる
悲しみの重さのため、興味本位で読み終えるのは容易でなさそうだ。
▽ソース:ヘラルド経済(韓国語)(2007.08.21.14:54)
URLリンク(www.heraldbiz.com)
▽関連ニュース:朝鮮日報日本語版 <日本人官吏が証言する最悪の親日派>
URLリンク(www.chosunonline.com)
▽関連スレ:
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