07/08/19 19:55:32 C7tflmc/
★古代朝鮮に先進文化は無かった。『日本におけるコイン鋳造の歴史』
歴史の教科書には、西暦708年[慶雲(けいうん)5年]に、武蔵国(むさしの国)の秩父郡(ちちぶごおり)から
銅が献上され、年号を和銅とあらため、初めて和同開珎(わどうかいちん)という貨幣[銀銭と銅銭]が造られたと書かれている。
しかし、奈良県の飛鳥池(あすかいけ)遺跡から発見された富本銭は、それ以前の7世紀(西暦600年代)後半頃に、
飛鳥の中心地で作られていることが分かった。富本銭が鋳造されたのは683年頃である。
考古学の研究が進んだことにより、古代の日本国では、富本銭以前にも『無文銀銭』という貨幣が使われていたことが
明らかになっている。『無文銀銭』が使われていた時代は、660年頃である。
朝鮮において初めて貨幣が鋳造されたのは、高麗時代初期(996年)であり、日本国の貨幣鋳造よりも後の時代だ。
この事実からも、10世紀以前の東アジアでは、日本国のほうが朝鮮よりも文化レベルが高かったことが理解できる。
朝鮮人は、「古代朝鮮人が日本に移住し、さまざまな先進文化を日本人に教えてあげた」と主張するが、そういう事実は無いのだ。
朝鮮人は古代日本に移住していない。文化レベルも日本国のほうが高かったのである。
日本国におけるコイン鋳造にも、朝鮮人はまったく関与していない。技術というものは、どのような技術であれ、使うためにある。
古代日本人に貨幣鋳造技術や貨幣経済の管理法を教えた渡来人たちは、当然、自分の国に住んでいた頃も、その技術を使っていたはずである。
もし、これらの技術を日本人に指導した渡来人が朝鮮人であったならば、彼らは自分の国(朝鮮)でも、貨幣を鋳造していたはずであり、
彼らの国では日本よりも早い時期に貨幣経済が発展していたはずだ。
ところが、9世紀以前の朝鮮(ワイ州とワイ新羅[わいしんら]が古代朝鮮である)においては、貨幣が鋳造された事実は無いのである。
また、朝鮮人の国ではないが、楽浪郡出身の漢人グループが、ヤマト朝廷の支援を受けて古代カラ半島の旧帯方郡地方に建てた、
百済国(475年以前はコマの国と呼ばれていた。コマとは楽浪郡の日本名)でも、貨幣鋳造は行われていなかった。
古代日本に貨幣鋳造技術と貨幣経済の管理法を伝えたのは楽浪郡出身の漢人たち(おそらく漢氏)であろう。それは間違いない。
しかし、彼ら漢人は百済では貨幣鋳造を行わず、百済を跳び越えてヤマト(日本国)に移住し、ヤマトの地で貨幣鋳造を行ったのだ。
古代満州地方から日本列島に至る地域にあった3つの国、楽浪郡・百済・ヤマトの3国のうち、9世紀以前の時代に貨幣鋳造を行っていたのは、
楽浪郡とヤマトの2国だけである。この2つの国の間に位置した百済では、一度も貨幣鋳造は行われなかった。
この事実を見れば、古代日本に移住し、大陸の先進文化を日本人に伝えた渡来人は漢人であったことが理解できるであろう。
渡来人は朝鮮人(ワイ族)ではないのである。朝鮮人は古代日本に移住していない。日本書紀にも中国の史書にも、
朝鮮人が古代日本に移住したという記録は無いのだ。朝鮮人が高度な先進文化を日本人に与えたという事実も無い。
そもそも、古代朝鮮人(ワイ族)は先進文化を持っていなかったのだから、日本人に先進文化を与えることはできない。
無いものは与えようがないのだ。
9世紀以前の時代において、日本文化は朝鮮文化よりもはるかに進んでいたのである。日本国にこそ先進文化が存在したのだ。
そして、日本国に先進文化を持ち込んだのは楽浪郡出身の漢人たちであって、朝鮮人ではないのである。
朝鮮人は古代日本の発展にまったく関わっていない。したがって、朝鮮人が「我々が古代日本を発展させた。日本人は感謝しろ」
と、主張するのはスジ違いである。古代日本に移住した渡来人は、漢人以外では百済人・任那人・志羅紀人などがいるが、
これらの人々は半島南部に住んでいた倭人系民族であり、日本人と共通の文化を持つ、言わば日本人の『同族』である。
彼らは、現在の朝鮮人・韓国人とは民族が異なるのである。韓人(からびと)と呼ばれた半島南部の諸部族は、日本語を話した。
韓人は、人種・文化的には、日本人に近い人々だったのである。