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共生のページ:密航で国外退去を迫られる金さん一家 日本で家族と暮らしたい /大阪
8月5日16時1分配信 毎日新聞
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
◇「地域に根付いている」
韓国・済州島から2度にわたって船で密航し、約25年間、大阪市生野区で暮らしている塗装業、
金根澤さん(44)が妻と子ども3人とともに国外退去を迫られている。60~80年代、済州島から密航し、
日本社会への定着が認められて在留特別許可を得た人も多数いるが、近年、密航者が名乗り出る
ケースは珍しいという。海を渡って生き抜いてきた金さんは「人生の半分以上を過ごした日本で家族と
暮らし続けたい」と願う。在留の道は開かれないのだろうか。【村元展也】
◆出頭したが……
金さんの密航は81年と86年。韓国ではソウル五輪(88年)の翌年に海外旅行が自由化され、
金さんはいわば“最後の密航世代”だ。同じ済州島出身の妻、高明志さん(34)は95年、知人を
頼って空路で観光ビザで入国し、オーバーステイになった。大阪で知り合い、長男(9)、長女(7)、
次男(4)をもうけた。
金さんは外壁塗装や防水加工技術を身につけ、95年に独立。高さんも飲料販売員として毎日、
働いている。
夫婦は行政書士に相談し、03年12月、大阪入国管理局に出頭した。長男の小学校入学を前に、
「正規の在留資格を得たい」と考えたからだ。経済的にも安定しており、「大丈夫だろう」との見通し
があった。
しかし、翌年8月、入管から呼び出され、金さんは強制収容。入管法違反で起訴された。
不法入国・滞在の外国人への取り締まりが厳しくなったことが背景にあるとみられる。
金さんは「『出頭時期を遅らせた方が良かった』と言う人もいるが、どのタイミングが良いかなんて、
私たちには分からない」と悔しさをにじませる。
05年2月、有罪判決を受け、同3月仮放免。同8月、一家全員に退去命令が出た。取り消しを
求めて提訴したが、1審、2審とも敗訴。法的に争うことをあきらめ、すべての経緯を明らかにして、
地域住民らからの支援を募り、在留特別許可を法務省に嘆願するしかないと考えた。子どもが通う
小学校の保護者や教員らに、支援を依頼している。
金さんは「子どもたちは日本語しか話せない。私自身、日本語の方が話しやすくなっている。
今さら済州島に帰っても生活のメドが立たない」と話す。
◆漁船で波を越え
金さんは済州島を出発し、81年12月、叔父と一緒に釜山(プサン)港から漁船を改造した密航船に
乗り込んだ。真っ暗な船底に約20人がひしめきあい、男女の見分けさえつかなかった。
当時18歳。船に乗る手はずは母が整えてくれた。金さんが小学生のころ、父は日本に密航し、
音信不通に。母に「父を探してこい」と言われた。
金さんも将来に展望が持てず、「日本に行きたい」というばく然とした思いを持っていた。
「密航がどういう意味を持つのかさえ知らなかった。気軽な感じでした」という。同行の叔父の密航は3度目。
日本行きは日常の延長線上にあった。
夜中に沖合で日本の漁船に乗り換え、夜明け前に九州の港に上陸した。叔父が以前に暮らしていた
生野区に行き、町工場で働き始めた。
84年7月、工場に警察の手入れがあった。同11月、摘発された者を乗せたチャーター機で韓国へ
強制送還された。待っていたのは、1週間に及ぶ公安当局の厳しい取り調べだった。
「金日成(主席)に何回会ったんだ」。当局は、密航者の中に北朝鮮に通じた者がいると警戒した。
腕立て伏せの姿勢を何時間も続けさせられ、崩れるとけり上げられた。殴られ、顔がはれ上がった者もいた。
「この国にいたくない」。金さんは母親に「もう一度、日本に行かせて」と頼んだ。86年、再び密航船に乗り込み、
生野区に戻った。結局、父は見つからなかったが、仕事と日本語を懸命に覚え、20年以上が過ぎた。
長年、済州島からの密航者の支援活動に取り組んでいる日本自由メソヂスト布施源氏ケ丘教会(東大阪市)
の合田悟牧師(75)は「生野区は特に済州島出身者が多く、歴史的にも経済的にも地域社会に深く根付いている。
済州島からの密航者の在留については、入管はこれまでこうした事情も踏まえて配慮をしてきたのではないか。
金さん一家も地域に根付いており、入管に再検討をお願いしたい」と話している。