07/07/08 19:01:41
今から100年前の1907年4月、大韓帝国のイ・ジュンとイ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の「密
使」は、日帝による侵略の不当性を訴えるため、オランダ・ハーグで開かれていた第2回万国平
和会議の会議場へと旅立った。
しかし、当時世界を牛耳っていた列強は、彼らに関心を持とうとせず、日本による妨害は執拗
(しつよう)なものだった。国運の危機は頂点に達し、密使らは死を覚悟していた。
彼らがハーグに到着したのは6月25日のことで、イ・ジュンは7月14日に現地で亡くなった。
本紙は、密使らの動きを逆追跡(ハーグ←サンクトペテルブルク←ウラジオストク←釜山←ソウル)
し、この100年間埋もれたままになっていた新事実を発掘する。
時々刻々と締めつけを強める日帝の圧迫、そして国際社会から疎外され、冷遇を受け、絶望
と鬱憤(うっぷん)に倒れていった彼らの絶叫が今も耳に響いてくるかのようだ。
◆密使らが到着した100年前の駅はそのままだが…
2007年6月15日、オランダ・アムステルダムのスキポール空港から汽車に乗り、30分余りでハ
ーグ中央駅に到着する。ここから1キロ程度離れた場所に、今でも100年前の姿をそのままとど
めたハーグHS駅がある。
1907年6月25日、3人の東洋人が暗い表情を浮かべながら、ハーグHS駅に降り立った。この3人
の東洋人とは、前平理院(最高裁)検事のイ・ジュン(48)、前議政府参賛のイ・サンソル(37)、前駐
ロシア公使館参書官のイ・ウィジョン(20)。釜山港を出発してから2カ月後、数万里におよぶ旅路が
ここで終わりを告げた。
万国平和会議は既に10日前に開幕していた。彼らの足取りは重かったが、取り急ぎ、みすぼらし
い「ドゥ・ヨン」ホテルに宿所を定めた。そして、その翌日に彼らは「皇帝の玉璽が押された信任状」
を手にし、会議への出席を要求したとされている。
しかし、今回の取材で会ったオランダ国立文書保管所の担当者・ハイデブリンク氏は、本紙との
インタビューで意外な事実を指摘した。
「3人がハーグで皇帝の信任状を提示したという記録はまったく存在しない」
「ドゥ・ヨン」ホテルの位置に建てられた「イ・ジュン烈士記念館」。訪ねる人もほとんどいないこの場
所には、「信任状」の写真がきれいに飾られている。この写真は、イ・ジュンがこのホテルの部屋で
亡くなってから1カ月後の1907年8月、米ニューヨークで発行された雑誌『インディペンデント』に掲載
されたものだ。4月20日付となっているこの信任状には、3人の特使を派遣し、韓国の外交権回復に
当たらせるという内容が記されている。左側には「大皇帝」という文字の下に手決(自筆署名)があり、
その下に「皇帝御璽」の印が押されている。以来、この写真は多くの書籍に転載された。
>>2に続く
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