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>>1の続き
◆信任状の御璽を偽造
しかし、この信任状に押された皇帝の印章は、偽造の可能性があるとの主張がソウルで提起された。
書誌学者のイ・ヤンジェ氏(イ・ジュン烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)は「信任状に
押された皇帝の印章である御璽が、本物ではないことは明らかだ。皇帝のほかの親書と比べて見ると、
印刻の字体が大きく異なり、印章を押したのではなく、筆で描かれたもので、にじんだ跡が見える」と指
摘した。
また、印刻専門家のチョン・ビョンレ氏(古岩篆刻芸術院院長)も写真を見た後、「“帝”の字は、上の
部分の画の長さや間隔がそろっておらず、“璽”の字も真ん中の文字の切れ目がないことから見て、
ほかの文書にある御璽とは完全に異なっている。非常につたない実力で作成した模作に過ぎない」と
断定した。
だが、御璽が偽造とは一体どういうことなのだろうか。ソウル大国史学科の李泰鎮(イ・テジン)教授は
「わたしが見ても信任状の御璽や手決に違和感が感じられる。しかし、皇帝の命もないのに特使として
活動することはできない。そのため、信任状には高宗の意中が込められており、任務を口頭で伝え、
後で書き入れるようにした委任状と見るべき」と推測した。
つまりこれは、日本軍が宮中を取り囲んだまま、水も漏らさぬほど厳重に皇帝を監視していたため、白
紙の信任状を渡したということだ。事をしくじった場合、善後策を講じることのできなかった高宗としては
最善の防御策であり、目前に迫っていた万国平和会議を前に焦っていた密使らにとっても、ほかに選択
肢がなかったのだろう。
◆高宗の「特使」派遣努力は挫折
最近、オランダ・ライデン大のクン・ツィステル教授は、高麗大が主催した学術大会で、「当時、万国平和
会議の副総裁だったドゥ・ボフォートが密使らと話を交した後、“本物の密使”との判断を下した」という趣旨
の発言をした。しかし、この際も信任状を示したわけではなかった。
イ・ジュンは3月24日夜、徳寿宮重明殿で皇帝に極秘裏に拝謁したが、やはり信任状を受け取ることはで
きなかった。信任状はその後、尚宮(宮廷女官)や外国人のハルバート博士のように、日本軍によるチェッ
クを余り受けずに済む人物によって持ち出されたものと推定されてきた。
ここで再びハーグ現地のイ・ジュン烈士記念館に話を戻すと、記念館にはイ・ギハン館長が探し出したロ
シア側の招待国リストの写本が展示されている。このリストによると韓国は、47カ国におよぶ招待国の中で
12番目に記されている。1905年の第2次日韓協約(韓国の外交権を日本側に譲り渡した条約)直前、ロシア
皇帝ニコライ2世が06年に予定されていた万国平和会議の招待状を高宗に送った。このとき高宗は特使
派遣に非常に積極的な姿勢を見せ、列強の国家元首らに親書を送り、第2次日韓協約が無効であること
を訴えた。しかし、既に外交権を喪失していたため、皇帝の努力は挫折に終わった。
その後、万国平和会議が1年延期され、今度は民間から特使派遣を唱える声が上がった。1907年3月、ソ
ウル尚洞教会を中心に、全徳基(チョン・ドクキ)、イ・ジュン、李会栄(イ・フェヨン)などの人物らがこの問題
について協議し、この3人を特使として派遣するという原則が打ち出された。そこでイ・ジュンが高宗に拝謁し、
「特命」を受けたというのがこれまでの通説だった。
◆密使らはどれほど暗鬱で切迫していたのか
しかし、密使らは出国が迫った4月末まで、誰かが代わりに持ってくるはずの「印章だけが押された白紙の
信任状」すら受け取れず、高宗はロシアから送られた招待状も密使らに渡すことができなかった。
その後も力なき皇帝は、密使を自分が送ったということを是認も否認もできなかった。
ただ明らかな事実は、信任状に問題があることを知りつつも、急きょ出発しなければならないほど、3人の密
使のハーグ行きが非常に差し迫った状況の中で行われたものだったということだ。イ・ジュンが釜山港を出発
したのは、信任状の日付からわずか3日後の4月23日だった。2カ月後、ハーグHS駅に到着したとき、彼らの心
中はどれほど暗鬱かつ切迫していたことだろうか。