【芸能】 チャイコフスキー国際コンクールの褪せた名声~日本企業がスポンサーになって日本人が有利に[07/01]at NEWS4PLUS
【芸能】 チャイコフスキー国際コンクールの褪せた名声~日本企業がスポンサーになって日本人が有利に[07/01] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★
07/07/01 22:31:29

(記者注:今年のコンクールで日本の神尾真由子(バイオリン)が優勝。韓国のイム・ドンヒョク
(ピアノ)は4位だった)

チャイコフスキー国際コンクールは1990年代以後、失われた昔の名声を取り戻すことができるだろうか。

チャイコフスキー国際コンクールが初めて開かれたのは1958年。4年に一度開かれるチャイコフスキー
国際コンクールは当初の予定通りなら去年6月に開かれなければならなかった。しかし、由緒あるコン
クール場所であるモスクワ・チャイコフスキー音楽院ボリショイホールがリノベーション(改築)の
ため、門を閉めて1年後に持ち越された(もちろん結局、リノベーションも持ち越された)。次の大会は
4年後の2011年に開かれる予定だ。

これまでチャイコフスキー国際コンクールは「クラシック音楽のオリンピック」と呼ばれた。ピアノ、
バイオリン、チェロ、声楽など主要部門をすべてカバーしているうえオリンピックのように4年に一度
開かれるからだ。しかし、あいにくやはり4年に一度開かれるワールドカップサッカーとかみ合って行
事進行に困難を経験した。そのため、音楽院リノベーションのため一年順延されたことが、かえって
よかったという話もある。

チャイコフスキー国際コンクールに入賞さえすれば国際的な演奏者として頭角を現わす時代があった。
冷戦時代クレムリン政府はロシア出身者が損害をこうむっても実力のある外国演奏者たちにメダルを
与えることを当たり前だと思っていた。ピアノ部門だけ見ても第一回大会で優勝を占めたヴァン・ク
ライバーンはアメリカで英雄扱いを受けた。日本出身の内田光子は1966年ピアノ部門共同2位(記者注:
1966年のピアノ2位はミッシャ・ディヒター(米)、内田光子は1966年のミュンヘン国際コンクール
で第3位)、74年鄭明勳(チョン・ミュンフン)さんはピアノ部門共同2位を占めた。(中略)

チャイコフスキーの名声が深刻に失墜したのは1990年第9回の時からだ。ペレストロイカの渦中に開か
れたこの大会で、参加者達は宿泊問題のため主催側に多くの不満を表明した。それまで、それなりに
公正に進行されて来た審査も偏向問題に巻き込まれた。ロシア人、特にチャイコフスキー音楽院出身
者が有利になるように審査するという非難もおきた。ロシア出身の審査委員が同僚教授の弟子に高い
点数を与えたという話も出回った。

最近には、ヤマハピアノ、トヨタ自動車など日本企業がコンクールのメインスポンサーになると日本
出身の演奏者に気を使っている、という話も聞こえる。偶然の一致なのか分からないが、2002年大会
ではピアノ部門、1990年と今年の大会ではバイオリン部門、1998年女声声楽部門で日本出身がそれぞ
れ1位に入賞した。

ロシアが最近、チャイコフスキー国際コンクールの名声を回復するためにどれくらい努力しているか
は今年4月他界したチェロ演奏家ロストロポービッチに第13回コンクールの会長を任せたことだけ見て
も分かる。しかし音楽界では実際にブリュッセルのエリザベート王妃国際音楽コンクールに入賞する
ことをもっと高く評価する雰囲気だ。チャイコフスキーはひととき世界最高権威を認められたが、今
はそうではないというのことだ。昔の名声を取り戻すために、努力しているがまだ充分でないという
指摘だ。

ピアニスト、イム・ドンヒョク(23)は今回の大会で1位なしの共同4位に入賞した。2001年ロン=ティ
ボー国際コンクール優勝、2003年エリザベート王妃国際音楽コンクール3位入賞、2005年ショパン国際
ピアノコンクール共同3位入賞に続き、初めて3位圏外になった。

イ・チャンジク=音楽専門記者

ソース:中央日報(韓国語)チャイコフスキー国際コンクールの褪せた名声
URLリンク(news.joins.com)

関連記事:圧勝 神尾さんに称賛 「チャイコフスキー」 金メダル授与 
URLリンク(www.tokyo-np.co.jp)



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