【書評】 「朝鮮士様に一手学びました」武士道の起源は朝鮮儒学~保坂祐二著「朝鮮士と日本サムライ」★2[06/29]at NEWS4PLUS
【書評】 「朝鮮士様に一手学びました」武士道の起源は朝鮮儒学~保坂祐二著「朝鮮士と日本サムライ」★2[06/29] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★
07/06/30 01:02:36

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日本では豊臣秀吉が死んで、徳川家康が政権を取って以後、江戸時代が開かれた。この時
から270年間、日本は前にも後にもない平和時代を享受した。12世紀サムライたちが日本各
地で政権を取りながら血なまぐさい殺戮戦を展開した戦国時代を経て、豊臣秀吉に至るま
で日本は片時も平和を持続したことがなかった。

ところで、どうして同じなような武士政権である江戸幕府はこのような平和期を維持する
ことができたのだろうか。ここにまさに‘朝鮮士の力’が隠れていた。

壬辰の乱(文禄の役;1592~1598)当時、捕えられた朝鮮の士たちは日本に性理学(訳注:
宋明理学。性即理(せいそくり)を主張したのでこう呼ばれる)を伝えた。江戸幕府は朝
鮮儒者たちに性理学を学んだ日本知識人たちを幕府の思想教育責任者にした。性理学を幕
府の正統思想にしたのだ。この時からサムライたちは無条件に主君に仕えることを臣下の
道理として受け入れ、自分たちの侵略性を主君に対する忠と親に対する孝に換えたのだ。

また同じ性理学を国家理念にしている朝鮮に対しても交隣関係を結んで平和時代を成すこ
とができた。朝鮮士から‘一手’学んだ日本のサムライたちが改過遷善(訳注:過ちを改
め正しい道に帰ること)したと言おうか。

保坂祐二教授の本はこのような朝鮮士と日本サムライの誕生背景から彼らの精神世界、お
互いに対する観点まで詳らかに追跡している。壬乱後、日本に朝鮮の性理学を伝えた代表
的な人物が姜沆(カンハン;1567~1618)だ。倭軍が幼い息子と娘を海にほうり出して殺す
のを目撃しながら、日本に連れて行かれた姜沆は通常の捕虜と違う特別待偶を受けた。

姜沆が儒者であることを知った日本人たちが彼の‘面倒を見るように’なったのだ。特に
日本儒学の祖と呼ばれる藤原惺窩(ふじわらせいか)は、姜沆を尋ねて弟子にしてくれる
ようを請うた。彼の真摯な姿勢に心が搖れた姜沆は藤原惺窩に四書五経を始じめ、退溪李
滉の性理学、朝鮮の科挙制度と葬礼制もなどについても詳しく教えた。

姜沆が朝鮮に帰還した1600年、徳川家康は藤原惺窩に講義を請じたし、彼の講義に魅かれ
た。頭の回転が早い徳川家康は藤原惺窩が講義した性理学的価値によって日本を統治すれ
ばうまくいくと判断したのだ。江戸時代、始終朝鮮と日本の関係が平和を維持することが
できたのは、姜沆が伝え藤原惺窩が受容した朝鮮性理学を江戸幕府が官学で受け入れたからだ。

日本の有名な教育者と同時に外交官だった新渡戸稲造(1862~1933)が西洋に日本を紹介す
るために英語で書いた「武士道(BUSHIDO:The Soul of Japan)」という本がある。日本人の
倫理観を説明した名著として数えられるこの本で、新渡戸は武士道が要求する人柄に対し
てこんなふうに整理した。

▲武士は主君に忠誠をつくさなければならない▲武士は親に親孝行しなければならない▲
武士は自らを厳しく治めなければならない▲武士は目下に善良で慈しみ深く対しなければ
ならない▲武士は私的欲心を捨てなければならない▲武士は富貴より名誉を尊重しなけれ
ばならない、などだ。

ここで武士を士に置き変えても全く無理がない。新渡戸が言及した武士道精神は元々朝鮮
士の精神だったのだ。

ソース:文化日報(韓国語)“朝鮮士様に一手学びました” 朝鮮士と日本サムライ
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関連スレ:
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