07/05/11 14:49:30 WZVGYr7Y
>>402
おい、ブタチョン。
おまえを蹴り上げる前に、
これでも読んでろ。
●1951年5月 ワシントンで開催した米英協議
イギリスが「「韓国は日本と交戦状態になかった」として韓国の署名に猛反対。
●1951年7月9日 米Dean Rusk国務長官特別補佐官・梁裕燦韓国大使会談
米大使が韓国大使に「日本との戦争状態にあり、1942年1月の連合国宣言に署名した国家
のみが講和条約に署名できる。従って韓国は署名国とはなれない」と通告。韓国
大使は「日本と戦った韓国人部隊が中国にあった。臨時政府として対日宣戦布告
をした。」と抗議。しかしアメリカは、「韓国臨時政府を一度も承認したことは
ない」と拒否。
●1951年8月16日
米国務省が講和条約最終草案を発表。韓国の不参加が決定。
講和条約署名を主張していたアメリカも「戦勝国、連合国」として、
韓国を位置づけていない。それどころか、臨時政府の承認を真っ向から否
定している。・・
(´・∀・`)ヘー 情けない「独立?プッ(^m^)」だったんだw
■3.2日間で下ろされた太極旗■
それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和
20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・
政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切
の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。
呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準
備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、
放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物
には、民族の旗「太極旗」が翻った。
しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しば
らく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡
すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻
した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。
■4.蚊帳の外の「朝鮮人民共和国」■
朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全
土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名
余りの代議員を集めて、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した
が、米ソ両国はこれを無視した。
9月8日、米軍が仁川に上陸すると、「朝鮮人民共和国」の
代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの
朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、
米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。
9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57
機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信
行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定
が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。
ルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、
連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くら
い必要だと述べていた。
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