07/04/30 22:16:24
(ハンギョレ)「多様な形態で皇民化政策が推進されたが<朝日新聞>はそれを批判すること
ができなかった。」
日本の<朝日新聞>は30日、1940年代京城(ソウル)支局に属した記者らの活動を回想する形
式で当時、日帝の植民地政策を批判し、自社の無批判的報道態度を反省する企画記事を載
せた。‘新聞と戦争’と言う主題で片面を使った。
1941年1月から2年間、<朝日新聞>の京城支局記者として活動した村上カンジ(莞爾?)
(91)は当時、韓国ソウルを訪問して南山(ナムサン)に‘朝鮮神宮’を建てたことを思い
出しながら「宮を建てて参拝するようにしたことはとんでもない話だった」と言った。
村上は京城支局に在職しながら検閲にかかる可能性のある批判的な記事は使うことができ
なかったと言う。ただ一度、朝鮮総督府の‘配布禁止’を受けた記事を使った事があるも
のの、それも事務的間違いでエンバーゴ(特定日までの報道統制)の約束を守ることができ
なかったから発生したことだったと言う。彼は「頭の中で検閲をしていた」と回想した。
村上とほぼ同じ時期に京城支局で朝鮮に駐屯した日本軍司令部を担当して日帝の注文どお
りの記事を使ったナラ・ヒロミ(87)の事例も紹介された。1942年10月、平壌(ピョンヤ
ン)の近くで開かれた秋期軍事演習に‘報道班員’として参加して取材した彼の朝鮮のお
爺さんに対するインタビュー記事は「宿所の年寄り、皇軍信頼の崇高なあり方」という題
名で報道された。
彼は「報道班員は軍の命令で動く。軍が自分の言いたいように発表しようとして作った制
度」と説明した。「今は‘戦争は嫌いだ’と思う。しかし当時はとにかく負けてはいけな
いと思った。ミリタリズムの宣伝をしているという認識はなかった。」
<朝日新聞>は1945年3月基準で‘朝鮮版’新聞を12万部以上を販売し、京城支局に記者だけ
で20人余りも派遣するほど、朝鮮は大きな販売市場だったことが分かった。
東京/キム・ドヒョン特派員
ソース:ハンギョレ新聞(韓国語)朝日新聞、植民地報道反省
URLリンク(www.hani.co.kr)