07/04/15 11:09:11
江戸時代の「朝鮮通信使」が始まってことしで四百年。
あまり知られていない交流の歴史をながめつつ、日韓をはじめ隣国同士の付き合い方の
教訓をくみ取れればと思います。
一枚の絵があります。
遠くに富士を望む江戸の街。カネや太鼓、笛など民族楽器を奏でる楽隊を先頭に、
朝鮮の礼服姿で輿(こし)を担ぎ、旗を持つ行列が続きます。
両側には、開けはなった町家の座敷や道路を埋める着飾った老若男女-。
異国情緒あふれる楽曲や人々のざわめきが聞こえるようです。
羽川藤永筆の「朝鮮通信使来朝図」。十八世紀中ごろの作です。
・世界史にまれな使節団
ことしは、「通信使」来日から四百年を記念しての各種行事が計画され、
東京や静岡、対馬などでは行列が再現されます。
「朝鮮通信使」は、江戸時代に十二回も行われた大外交使節団。世界史にもまれといえそうです。
漢城(いまのソウル)から江戸まで約二千キロ、四、五百人もの一行が
一年ほどかけて往復したというのですから、なんとも壮大です。
日本と朝鮮の外交は、室町時代にも活発でしたが、豊臣秀吉の治世に
朝鮮へ攻め入った(文禄・慶長の役)ため途絶します。
再開を決断したのが徳川家康でした。二つの役の直後、朝鮮国王に「和交」を申し入れました。
関ケ原の合戦で天下を制した家康は、隣国との争いを回避して、国内を安定させ、
隣国の王の国書が権威を高めて支配を強固にできると読んだからです。
朝鮮の方も、北方で女真族がしばしば国境を侵し、南方にある日本との
安定した関係が不可欠でした。
それに二つの役で二、三万人が捕虜になっており、これを取り返す必要もあったのです。
このため、第一回の使節団は「回答兼刷還使」と称しました。一六〇七(慶長十二)年です。
・盛んだった交歓・交流
両国にはそれぞれ思惑がありましたが、大使節団が対立から友好親善へ
転換させたのは間違いありません。「家康の平和外交」です。
第四回からは「通信使」と呼ばれ、徳川将軍の就任を祝う国書伝達が目的に変わりました。
経路は、釜山から船に乗り、対馬、瀬戸内海、大坂を経て、
京都からは陸路を江戸まで。道中注目されるのは文化の交流です。
朝鮮王朝は、儒学、漢詩、絵画、医学などに秀でた人材を一行に加えました。
このため宿泊地ごとに日本の専門家が教えを請うたり、交歓したりが盛んに行われ、
日本の文化に計り知れない影響を与えました。
楽隊やサーカスも人々の好奇心を刺激して、人形(広島県・張り子人形)や
祭り(岡山県・唐子踊り)となって、いまに残っています。
まさに江戸時代の“韓流”です。
ただ、朝鮮国王の就任を祝う日本の使節団は、釜山にある「倭館(わかん)」までと
制限されました。朝鮮が再侵略を恐れ国内事情を知られたくなかったためです。
それでも、徳川幕府から朝鮮王朝に贈られた金地絵屏風(びょうぶ)や茶道具、
錦衣、装身馬具などは朝鮮文化に刺激を与えたに違いありません。
振り返ってみると、江戸二百五十年の間、日本は近隣と一度も戦争をせず、
平和が保たれました。これも世界史にはまれなことです。
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